眼瞼下垂症手術と私 シリーズ2 (2)

この手術を始めた頃は、重瞼ラインを決めるのに椅子に座ってもらって、ブジーという金属棒で瞼を押し上げてこれくらいかなと印をつけていました。

一重まぶたの人は、座って正面を向いてもらった時の瞼の折り返しのライン(一番下に下がったところ)が本来の重瞼ライン(眼瞼挙筋の末端が付着して奥に引っ張るべきところ)であることが多く、従ってそのラインを切開すると自然なラインができるのですが、あとは広めか狭目かご希望に従ってそれを基準に1ミリずつ上げ下げするわけです。
後天性眼瞼下垂で二重のラインが何本にもなった人は、そのラインのうちから最も自然なラインになりそうなところを切開線に選ぶのですが、そのうちこの何本ものラインの出来方になんとなく法則性があることがわかってきました。
こうして多くの方の瞼を触ってはみているうち、少なくとも日本人(東洋人?)の瞼であれば、このポイントを外さなければ自然になりそうだという計測の仕方がわかってきて、今では手術ベッドに寝たままでもラインを綺麗に決められるようになりました。
目頭の切り始めの位置だけは、いわゆる平行二重にするか末広型にするかのポイントなので少し「好み」で位置を変えたりできますが、そこから目尻に流れる曲線はほとんどの場合「生まれつき決まっている」といっても良い皮膚の構造の境目があり、そのラインを外さないようになめらかに線を引いていくと自然に目尻側の切り終わりも決まります。
もちろん、美容的な目的でわざとそのラインから外して切ることも可能ですが、ずれるほどにやや人工的な感じがまし、いわゆる「やりましたね」という感じになるので、少なくとも大江橋クリニックにおいでになる患者さんには積極的にはお勧めしません。
特に男性の場合、あまりはっきりした二重まぶたは好まれない方が多く、この自然に決まるラインから外すことはほとんどありません。それでも、術後にはやや「可愛らしい」というか「優しい」感じの目に仕上がることが多いです。患者さんには、もともとこういう感じになるべき目だったんですよ、とご説明しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

眼瞼下垂症手術と私 シリーズ2 (1)

以前眼瞼下垂について書いてから6年余りが経ちました。
私なりに経験も積み、徐々に考え方も手術法も変わってきたので、そろそろ現時点で思っていることなどをまとめてみようと思います。

6年前と比べて眼瞼下垂の手術を行う施設が格段に増え、またそれに伴って術式も多様化してきました。その中で特徴的なのは、重瞼埋没法に似た切らない眼瞼下垂手術と眉下切開による皮膚切除を合わせて行う術式でしょう。
私はそれなりの理由があって、どちらの術式も積極的には行いませんが、患者さんの問い合わせは多々あります。
個人的には、重瞼ラインの決め方と皮膚切除量の定量法が以前とは変わりました。それに伴って、術前に椅子に座ってもらってラインを決めたり、術中に起き上がってもらったりする必要がなくなり、腱膜を瞼板に固定したときに1、2度目を開けてもらい筋肉が機能していることを確認するだけで手術を終了できるようになりました。
今回のシリーズではそれらのことをまとめてみたいと思います。

|

音楽と美容の共通点(2)楽器の寿命について

 木工製品に関心のある人なら、切り倒したばかりの新鮮な材木(生木)で作ったものは「狂う(変形する)」ということはご存知だろう。木工製品の原木は、通常何年も寝かされ(乾燥され)その間にねじれたり反ったりひび割れたりした部分を捨てて、「枯れた(形態が安定した)」部分だけを用いて制作される。

 一方で、木の楽器には「寿命がある」とよく言われる。ギターは作られて数年間が最も響きが良いと聞いたことがある。和楽器である琴も、作られて十数年たつと張りのあった響きが徐々に軽くなり、いわゆる「枯れた」楽器になっていくのだそうだ。
 ストラディバリウスのように、制作されて300年も経ってなお「名器」と呼ばれ続けるものもあるが、現存している約650挺の中で現在も素晴らしい音色を奏でつづけているものはそれほど多くはなく、美術館等で保存されているものの多くは「楽器」としての生命を終えて「骨董品」としての位置づけになっているものと思われる。(もちろん、300年間一度も演奏されたことがなく、天才バイオリニスト千住真理子の手に渡って復活した幻の名器デュランティのような例もあることはある)

 木の笛であるリコーダーやフラウト・トラヴェルソなども寿命の長い楽器ではあるが、博物館などに納められて久しい楽器は変形したり収縮したりしており、復元楽器を制作する際に制作された当時のサイズを正確に知ることはなかなか困難であるという。

 こうして様々な楽器についていろいろ調べてみると、どうやら木の楽器は、演奏家の手元におかれて毎日良い音を奏でているとその楽器本来の寿命を全うし、長い間名器であり続けるが、演奏家の手を離れて「美術品」として死蔵されたり展示されてりすると急速に「楽器」としての輝きを失っていくように思われる。

 では、演奏され続けることによって、木の楽器は演奏家から何を受け取るのだろうか。
 楽器は演奏される度に、演奏家の手肌に触れ汗や呼気の水分を吸い、高音から低音まで様々な周波数で周囲の空気を振動させる。ライトを浴び、揺り動かされ、演奏が終われば布で拭かれ、ケースにしまわれる。調律のために部品を回したりねじったりし、そのたびに締め付けられたり緩められたりもする。
 この繰り返しが楽器に生命を与え、日々成長し、寿命をのばすのだろうと思う。

 要素に還元するならば、楽器に長い生命を与える魔法は、日々繰り返される空気の流れ、温度の変化、振動(音)、可動部品の稼働、そして水分と油分の周期的な変化なのではないだろうか。次章以降は、これらについて考察を加えてみることにする。

|

音楽と美容の共通点(1)古楽器の手入れ

 少し趣を変えて、しばらく音楽や芸術について考えてみたい。美容に対する考え方との共通点のようなものが感じ取っていただければ幸いである。

 学生時代のことだから、ン十年前になるのだが、ルネサンス時代の音楽に興味を持ち、リコーダーを習っていたことがある。趣味も嵩じてくると「良い楽器=ホンモノ」が欲しくなるわけで、YAMAHAではなくて(いや、YAMAHAのリコーダーも実は大変優れた楽器だが)ヨーロッパで作られた木製の笛が欲しくなった。しかし「ホンモノ」は高いのである。そこへ妹の友人である山城譲氏(現在はチャカバッティオカリナ四重奏団で活躍中)から、オランダで30万円で買ったけど使わなくなった楽器があるから18万円で譲ってもいい、という話があって私はそれを譲り受けることにした。
(その辺の細かな経緯とか楽器の詳細とか書きたいことは沢山あるが、今回のテーマからは外れるので省く)

 で、木の笛である。
 楽器をよく知る友人や先生からくれぐれも言われたことは、楽器は時間をかけて徐々に吹き慣らし、日々の手入れをきちんと行うことによって「良い楽器」に成長していくのであって、上手な吹き手が持てば良い楽器になり、いい加減に扱えばダメな楽器になってしまうということであった。

 嬉しがっていきなり何時間も練習してはいけない、変形したりひび割れて二度と使えなくなってしまう。
 初日は3~5分から初めて、徐々に息を吹き込む時間を増やしていくこと、中音域からはじめて徐々に強い音にしていき、十分に良く響くようになってから音域を広げていくこと。使い終われば分解して柔らかい布で水分を拭き取り、箱に収めてもすぐに蓋を閉めずにしばらく休ませること、楽器を裸のままいきなり戸外に持ち出さないこと、週に一度くらいは亜麻仁油に浸して(オイルバス)その後丁寧に油分を拭き取ること。
 するべきことはたくさんあった。

 当時の私はまだ若く、そうした日々の扱いが楽器を大切にしその性能を十二分に発揮させることだとは理解できたが、良い楽器がそれほどまでにデリケートなのだということについては半信半疑であった。特に、演奏者が良い音を長く響かせているうちに、楽器そのものが良い音に育っていくという点については、なかなか理論的に理解できず、それは愛着とか楽器をいとおしむ心とかいった精神的な部分が演奏者の「音楽する心」に影響を与えるせいではないかと疑っていた。つまり、演奏者が「良い楽器だ」と思い込んで演奏することによって、より細やかでデリケートな部分まで心のこもった、楽器の性能を生かしきった演奏になるのではないかと思っていたのだ。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(9)

謹賀新年。

新年になって、ようやく少しずつ内容を充実させる方向に力を注げるようになってきた。

今年の方針は、できる限り具体的な記述を心がけること、長い文章は別ページにまとめて、各診療科のトップページに一覧性を持たせること、できることとできないことを明確にすること、などである。

3年余り診療を続けてみて、保険診療の限界と制限がかなりはっきりしてきたので、(具体的なことはここで書くべきではないので他稿に譲るが)保険診療ではできないこと、を明示しながら紹介していきたいと思う。

サイトの構築についてはだいぶCSSの書き方に慣れてきたので、ブラウザによって見え方が異なるという不具合が少なくなってきた。もう少し勉強を続けて統一感のあるサイトにしていきたい。今年もよろしくお願いいたします。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(8)

 別サイトで運用していた院長ブログ、スタッフブログ、会員制ブログなどを一括して大江橋クリニックのサイト内に移した。
 といっても、フレーム機能を利用してリダイレクトしただけなので、ファイルの保存先が変わったわけではない。

 そんなことをしたのは、以前さるWeb制作会社と話をしたとき、niftyのココログでブログを運用するのは、信用度の面で自社サイトで運用するより劣ると聞いたからである。実際には、弱小中小企業が自社のサーバにファイルを置くより、niftyのような大手サービスプロバイダのほうがよほどセキュリティもメンテナンスもしっかりしていると思うのだが。
 まあそんなわけで、見かけ上は大江橋クリニックのサイトはすべてoebashi.jpの中に存在することになった。いわゆる「公式サイト」である。

 時々、医療機関検索サイトで見た診療時間が実際と異なっていた、現在のところ大江橋クリニックでは行っていない治療をやっていると書いてあった、などのお問合せをいただくことがある。
 大江橋クリニックでは、基本的に、こちらから積極的には検索サイトに情報提供を行っていない。検索サイトの情報は、各運営会社が独自にネット上の情報などをもとに作成したもので、古い情報をそのまま更新していないことも多い。

 正しい情報はwww.oebashi.jpをご覧いただきたい。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(7)

 リンク集のページを立ち上げて飛べるようにしてみた。まだホンの一部で、たとえば所属学会や医師会、その他重要なリンクが抜けている。今後も徐々に整備していく予定である。

 前回の宿題になっていた会員ページへのジャンプの問題は、ソースの書式を一部変更することで解決した。このように、IEだけジャンプした後の挙動も他のブラウザとは微妙に違うのだが、大きな問題はないのでそのままにしてある。
 ※ その後ジャンプの仕方を変更して、この問題が生じないようにしました。

 以前連載していたとき好評だった「大江橋クリニック スタッフブログ」の過去ログを読めるようにして欲しいと要望があった。
 過去ログについては、1か月分ずつwebarchiveファイルとして保存してあったので、その最終月分(09年8月分)をアップロードしてみた。

---※ 以下はすでに修正したので不要になりました---
 Mac OS Xであれば、Safariなどの標準的なブラウザで見ることができる(リンクなどは切れているが、写真も含め見た目はそのまま再現される)。Windowsの場合はちょっと厄介で、webarchiveファイルはSafari専用のファイル形式なので、通常のブラウザでは見られない。ダウンロードしてもそのままでは開けない。

 方法を以下に示す。

 1) まずはWindows版のSafari 4をインストールしてみてください。
 2) ホームページのリンクをクリックして、0908.webarchiveをダウンロードし、保存してください。
 3) コントロールパネルからフォルダオプションを開き、「ファイルの種類」タブを選んでください。
 4) 新規をクリックして、ファイルの拡張子に「webarchive」を追加してください。
 5) 拡張子「webarchive」のついたファイルをプログラムSafariで開くように設定を追加してください。

これで、ダウンロードしたファイルをダブルクリックすればSafariで過去のスタッフブログを1か月分ずつ表示できるようになるはずである。

 Office Word 2008でも読めるはずとのことだが、古いバージョンでは変換できないようで今のところ確認できていない。時間があれば、ファイル自体をpdfなどに変換して、各種のブラウザで見えるようにしたいと思っているが、今のところすぐには対応できない。上記をお試しいただきたい。
---※ 上記はすでに修正したので不要になりました---

 ※ その後webarchiveファイルをHTMLに戻すフリーソフトを発見したので自己解決しました。過去ログは1年間連載したものを1ヶ月ごとに区切って保存してあります。お楽しみ下さい。 

|

大江橋クリニックのウェブサイト(6)

 パスワードを入力すると会員制ブログのページにジャンプする仕掛けをインストールしてみたのだが、クリニックのコンピュータ(WindowsXP)だと InternetExplorerではうまく飛べないということが発覚し、(FirefoxやChromeなら普通に機能する)現在原因を究明中である。調べてみるとInternetExplorerのバグか独自の仕様(笑)らしいのだが、最新版をインストールすると直るらしいので、更新をサボっていたためにうまくいかないだけかもしれない。
 ※ その後書式を少し変えたら直りました。最初はジャンプ専用のページを経由する仕掛けでしたが、今ではもう少し洗練されてます(汗)

 今日はスタイルシートを少し修正して、複数のスタイルシートを読み込むのではなく、bodyにクラス指定をして各ページごとのバックグラウンド画像の表示を変えるようにしてみた。これでソースはすっきりしたが、画面の表示には何の変化もない。要するに自己満足である。

 来年はHTMLの推奨バージョンが5になる(W3Cが勧告する)と共に、CSSも3が標準になりそうだから、できたらそれに準拠して全面的にソースを書き換えたい。それまでは内容を充実させるほうに力を入れたいと思うのだが、つい見た目を改善する小技のほうに興味が行ってしまう。困ったものである。

 ようやくサイト利用規約医療情報の取り扱いについてをアップした。大江橋クリニックの情報に対する姿勢を少しでも理解してもらえたら幸いである。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(5)

 トップページのデザインはかなりの変遷があった。
 ありきたりのものはいやだが、ロゴマーク、住所や連絡先、各ページへのリンク、お知らせ、常時表示するトピックス、診療案内のメニューバーといった「はずせない」材料を並べて行くと、いやでもありきたりのデザインになって行く。

 しかし、たとえばこんなページになってしまうのはなんとしても避けたいわけである。(別にこのサイトとクリニックとは何の関係もないが、たまたま見つけたので例に挙げただけです。デザイン例を見るご近所のクリニックと同じようなページがあったりしてとちょっと笑ってしまいます)

 もっとインパクトを!だけどこんな風になってしまうと衝撃的ではあっても美容も扱うクリニックとしてはいただけない。
 というわけで、美容外科や病院のサイトを見るのはもう止めることにし、異業種のサイトからのパクリで(おい!)サイトを構成する事にした。
 それは例えば「Ao<アオ> 青山・表参道」のサイトであったり「貝印」のサイトであったり、「京都 掛札」のサイトであったりするのだが、どこをどうまねたのか、お分かりだろうか。

 まあ,そんな風に、今日もいろいろと試行錯誤しながらサイトをつくっているわけです。
(今日は、非常に単純な「パスワードの仕掛け」を会員ページへのリンクに組み込みました。まだほんのお遊びみたいなものなので、実は裏口から簡単に入れたりします。)

|

大江橋クリニックのウェブサイト(4)

 現在のウェブサイトのデザインは、トップページに代表される「白抜きのロゴマーク」から始まるスタイルと、各診療科のページに見られる左上に「小さな紺色のロゴマーク」をあしらったスタイルとが混在している。

 各診療科のページデザインは、現在の一つ前のデザインを引きずっていて少々野暮ったい気がするが、まだレイアウトの変更が追いついていない。それでも、バックグラウンドの色をそれぞれの診療科のコンセプトカラーに揃えたので、バリエーションと統一感が程よく表現できて、しばらくはこのままでいいかと思っている。(むしろ内容を充実させるほうに力を注ぐべきだろう)

 OとCを組み合わせたロゴマークと、ロゴの書体はプロの作品である。ラインの美しさと品格を表現したかったのでとても気に入っている。看板や玄関の表札にも使われているので当面変更する予定はないが、それでも使う場所により文字のウェイトや色調などは少しずつ変化をもたせている。
 バックグラウンドのイラストはクリニックの近くの大阪市中心部を撮った写真をPhotoshopで加工したもので、最近の高解像度モニタにあわせてかなり大きなサイズに作ってある。調べてみるとクリニックのサイトを訪れてくださる方の中には2560x1600などという大きなモニタで見てくださっている方もあるので、そのうちもっと画像解像度を上げなければならないかもしれない。

 全体の基本的横幅は880ピクセルで揃えてある。最初はもっと小さなモニタで見てくださる方のことも考えて550ピクセル程度で作っていたのだが、最近4ヶ月で横幅880ピクセル以下の訪問者は3名だけだったので、この程度であればほとんど全員の訪問者に快適に全体像を見てもらえるのではないかと思っている。
 今後の課題は、携帯とスマートフォン、特に院長・副院長も使っているiPhoneできれいに見えるサイトを作ることだが、これは当分先のことになるだろうと思う。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(3)

 開院も近づき、誰も訪れていない(らしい)サイトのシンプルすぎる表現にさすがに不安になった私は、最初の志を曲げて、多少は美容外科「らしい」サイトにしてみようとサイトの改造を始めた。

 開院お知らせのチラシとして用意した「女性の顔写真」の一部をモチーフとして、色もチラシに合わせピンクがかった藤色にして、「いかにも」な外観のサイトに変えてしまった。(それでもかなりシンプルなんですけど)

 その後まあいろいろ変遷があって、結局患者さんは「沢山書いてある」と安心するらしいこと、怪しげに見えないためには「まじめにきちんと説明」することが大切だということにあらためて気づき、現在のような文字ばかりのサイトに成長したというわけだ。

 それでも見た目の「品格」には結構こだわっている。

 勝手にちらちら動かない、入り口のページにイラつくフラッシュは使わない(now loading........なんて出たら個人的にはすごくいや)、統一感を失わない程度に各ページに独自性を持たせる、できる限りイメージではなく文字で正確に伝える、。。。

 作り方は最初に書いたように、テキストエディタでこつこつ打ち込みだから、凝ったことはできない。でも、それでいいと思っている。素人でもソースを見れば何が起こっているかわかる程度に、スクリプトやトリッキーな技はできるだけ排して(というかできないだけ)ほとんど表組みだけでレイアウトを作っている。

 したがって、ほとんどすべてのブラウザで普通に読めるはずだし、不具合があるとしてもレイアウトが多少崩れるぐらいだと思う。今後も今のページを土台にして、内容を追加していきたいと思っている。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(2)

 大江橋クリニックのウェブサイトを作ろうと考えたとき、最初は常識的に、プロに依頼してきちんとしたサイトを創りたいと思った。そこでいくつかのWeb制作会社と話をすると同時に、検索に引っかかってくるいろいろな医療機関のサイト、なかでも美容外科のサイトを端から見ていった。

 その結果感じたことは「何かみんなどこかで見たような、ありきたりの感じがする」、特に美容外科のサイトは「どことなく胡散臭い感じがする」というものだった。

 医療機関はたとえ大病院であっても企業と比べれば非常に小規模で、まして個人のクリニックは零細企業だ。サイト作りにはあまりお金がかけられない。
 そのためか、レイアウトやデザインも市販の制作マニュアルなどにある「病院・クリニック」のサンプルの使いまわし、使っている写真は「素材辞典」などの著作権フリーの素材ということになり、結局あのクリニックでもこのクリニックでも「同じレイアウト」「同じ写真」が登場するのだろう。

 また、美容外科サイトを訪れる人は「ふたえ」「小鼻」などで検索をかける人が多いから、トップページにそのようなメニューが載っていないと見てもらえないのだという。安く治療できるところを探している人が好む色はオレンジや緑、安心感を求める女性はピンクが好き、などというWeb制作のノウハウをそのまま信じると、ピンクのページに女性の笑顔、イラストを添えた施術のメニューがずらりという「胡散臭い」サイトが出来上がってしまう。

 大江橋クリニックのコンセプトカラーは少し赤味を含んだ深い紺色、それは信頼と格調を表現する色としてこだわって選んだ色だったので、何とかそのイメージを前面に出したかった。
 お品書きやサンプルを表に並べているレストランは安っぽい感じがする。それは避けたい。何を書くかより何を書かないか、できる限りシンプルに、診療時間と地図さえあればよい。

 そんなつもりで、最初のサイトを作ったのだが、それは紺色でわずかに濃淡をつけた横縞の地模様をあしらった四角いページに白いゴシック体の文字、手作りの地図というごく単純なもので、表紙とあわせて4ページ(表紙、診療案内、地図、求人)、予想通りというべきか、全く反響はなくおそらく誰も見てはいなかったのではないかと思う。

|

大江橋クリニックのウェブサイト(1)

 大江橋クリニックのウェブサイトは、htmlファイルを1文字1文字テキストエディタで打ち込んでいくという、いささか前時代的な方法で作られている。

 新しい知識を仕込む時間的余裕がないので、htmlのバージョンは4.01 Transitionalでとまっていて、xhtmlやxmlに書き換えられない。CSSやjava scriptはあちこちで見かけてかっこいいと思ったソースのパクリである。したがって、何か不具合がでると、試行錯誤の連続で少しずつ手直しする以外にない。

 最初作り始めたときは、なるべくユニバーサルアクセスに準拠して、音声ブラウザにも対応できるように、どのOSでもきちんと見えるように、などと考えたのだが、CSSの知識が不足しているものだから、結局見栄えにこだわると表組み(table tag)を多用することになり、htmlの作法としては少々行儀が悪く汚いソースになってしまう。

 それでも、ここ数日のメンテナンスで不具合は大分減ってきた。1ページずつ直すので、まだ半分以上のページは前のレイアウトを引きずっているし、CSSを書き換えた余波でレイアウトが崩れてしまったページもある。今月中には何とか手直しを終えて、新しいページを追加していきたいと思っている。

 このブログには、しばらくは、このサイトを作る際にどんなことを考えているかについて書いていこうと思う。

|

耳の形成外科(6): 柔道耳、レスラー耳

継続して何回も耳を打撲したり、あるいは軟骨が断裂するほど強く打ち付けたりした場合、単に耳の内部に出血するだけでなく軟骨も変形し、潰れたギョウザのような異様な形に固まってしまうことがあります。

たまった血液はいずれ吸収されてしまいますが、断裂した軟骨から移動してきた軟骨細胞や、血腫の中に混じっている各種の幹細胞などが増殖して、変形した形に合わせて軟骨や傷痕の組織(瘢痕)をつくり、ごつごつと硬い塊になるわけです。

こうした耳の手術をする場合は、まずもとの耳がどういう形であったのかを想像し、その耳の形に合わせて耳の縁に当たる部分に切開を入れて一旦軟骨から皮膚を剥がします。そうしておいて、塊の中から再建に使えそうな軟骨部分を切り出して、糸で縫い合わせながら耳の形を組み立てていきます。

場合によっては軟骨が粉々、ばらばらに壊れていて耳のフレームとして使えないことも少なくありません。そんなときは耳甲介という耳の穴に近い部分や反対側の耳から使えそうな軟骨をデザインして切り取り、それと組み合わせます。どうしても耳からだけでは材料が不足する場合は、肋軟骨や鼻中隔軟骨など他の場所から軟骨を採取することも考えますが、他の場所から取った軟骨は耳の軟骨に比べて弾力に乏しくもろいため、できる限り耳の内部での移植に留めています。

この手術は時間もかかり技術も要するので、本来であれば小耳症手術と同程度の手術料であるべきだとも思うのですが、現在のところ通常の耳介形成手術として保険で行っています。(軟骨移植が必要な場合は、その費用も算定しますが、合わせて片耳4~5万円程度で収まると思います)

|

耳の形成外科(5): 耳介血腫と耳介偽嚢腫

事故やスポーツなどで耳を打撲すると、耳の軟骨の中に出血し、血が溜まって耳が変形してくることがあります。時には特にそれといった怪我の記憶がなくても、ごく軽い刺激で起こることもあるようです。

この段階であれば、溜まった血を抜き、耳を圧迫していれば元に戻ることがありますが、圧迫の期間が短かったり不適切な処置を受けていたりすると、変形が固定化してきます。
圧迫してくっつくことが期待できるのは、出血が始まってせいぜい数日の間で、その間に何もしないと出血は止まったとしても空洞の中に様々な細胞が遊走してきて袋を作り、黄色く透明なリンパ液が溜まる「偽嚢腫」に変わって行きます。

また、繰り返す出血により内部に溜まった血液が「基質化」して軟骨状になり、いわゆる柔道耳になってしまうこともあります。(柔道耳については別に書きます)

耳介軟骨は、1枚の板でできているように思えますが、実際には出血するのは表と裏の2枚の軟骨の間です。ちょうどサンドイッチの2枚のパンの間にたっぷり具を挟んだように膨らみ、内部に溜まった液体の圧力で更に広範囲まで剥がれて広がります。ですから、血を抜いたらすぐに表と裏の両側から2枚の軟骨を挟みこんで密着するようにくっつけておかないと、いつまでたっても軟骨は1枚に戻りません。通常は「ボルスター固定」といって、綿花やスポンジなどを両面から縫い付けてキルティングします。固定期間は最低でも2週間は必要で、通常の抜糸のつもりで1週間で縫いつけた糸を切ってしまうと、また再発することもあります。

「耳鼻科にいったら、しばらく強くつまんで圧迫しろといわれた」などという患者さんに出会ったことがありますが、いくらなんでも2週間指でつまんでいるのは不可能ですから、そのお医者さんは事の重大さをご存じなかったのだろうと思います。

時機を失した場合や出血が続く場合は、切開手術が必要となります。目立たないように耳の縁から切開し、まず2枚の軟骨をきれいに剥がします。出血点が見つかれば電気メスなどで丁寧に止血します。通常、そのまま2枚を合わせてもくっつかないので、両方の軟骨表面を軽く傷つけて癒着させるようにしますが、うまくいかない場合には表側の半分を切除してしまうこともあります。軟骨はやや薄くなりますが、耳が変形することはありません。

これはすでに内張りの袋ができて「偽嚢腫」となった場合も同じです。偽嚢腫の場合は袋の組織を完全に取り除かないと再発しやすいので、軟骨の切除を考えたほうが確実かもしれません。いずれも、ボルスター固定を行い完全にくっつくまで糸を外さないようにします。

変形が固定化していない場合は、この手術で完全に耳の形は元に戻ります。傷痕もまず見た目にはわかりません。放置せずにできるだけ早く処置を受けることが大切です。

|

耳の形成外科(4): 立ち耳の手術

ミッキーマウスのように左右に張り出した大きな立ち耳は、欧米では悪魔の耳、動物の耳として嫌われます。したがって、耳を寝かせる手術は、私がドイツ留学中も毎週のように行われるありふれた手術でした。手術の予定表にOtapostasisと書かれているのがそれで、私も自分の普段行っている手術とどの辺が違うのか知りたくてよく覗きに行きました。

立ち耳は、アジア世界ではむしろ、愛嬌がある、可愛らしい耳として愛される傾向があり、強制的に寝かせる手術はそれほど多くは行われません。私も留学前は、左右の立ち方に差がある患者さんの片方の耳を反対側に揃える手術をするぐらいで、あまり立ち耳の手術を積極的には行っていませんでした。留学中に仲良くなったトルコ人の看護師さんは、
「ドイツ人は何でも箱に詰めたように真四角にしたがる。耳まで頭蓋骨にくっつくほどぺちゃんこにする」
と少々嫌そうにしていました。

しかし、最近では日本人の感覚もだんだん欧米化してきたのか、立ち耳の手術を希望される方が増えてきました。立ち耳は確かに耳の軟骨の形の異常ではありますが、上記のように長い間伝統的に日本文化の中で許容されてきたために、まだ「健康保険の適応手術」とは見なされておらず、そうした手術の費用も定められてはいません。したがって、大江橋クリニックでも現時点では(大きく左右差があって異様な感じがする場合等を除き)自費で手術を行っています。

耳は大雑把に言って、斜め後方45度ぐらいの角度に寝ているのがよいとされています。この角度に寝かせるためには、耳の付け根のところを切開してまず邪魔をしている組織を切除し、軟骨も軽く切開を入れて癖をつけます。切らない手術と称してこの段階を省き、糸をかけて引き寄せるだけの手術を行う所もあるようですが、耳の軟骨は非常に強い復元性と弾力があるため、糸だけで引き寄せた耳は糸が切れれば元に戻ってしまいます。ナイロン糸は丈夫なのでなかなか切れないとはいえ、糸が切れなければ今度は軟骨のほうが徐々に裂けますから、結局糸をかけただけの手術は永続性がないといえます。(これは重瞼の埋没法と似ています)

耳の後の組織を切除した上で糸を頭蓋骨の骨膜と耳の軟骨膜にかけ、二つの硬い膜を密着させて固定します。こうしておけば、いずれ膜の間に瘢痕組織ができて固まり、糸が切れても元に戻ることはなくなります。

立ち耳の場合、単に耳が起きているだけでなく、軟骨の折り込まれかたも少なく、平らに伸びていることが多いので、これを整えるには軟骨の表面に、曲げたい方向に合わせて軽くメスを入れていきます。通常は「対耳輪」と呼ばれるY字型の山脈を作っていくのですが、この際には、耳介軟骨は浅く切開すると切開したほうを凸にして膨らむ、という性質を利用します。これだけでもよいのですが、より確実にはできた形を固定するために、重要なポイントを何箇所かナイロン糸で結び合わせていきます。

軟骨が「露出していれば」これはそれほど難しい作業ではありません。しかし、実際には耳の軟骨は皮膚に覆われているので、切開する前に皮膚と軟骨を剥がさなければならないことになり、これをどの程度、どのような皮膚切開から行うかが結果を左右します。
以前は皮膚切開は耳の裏側だけにとどめ、そこからみかんの皮をむくように皮膚を軟骨から全部剥がしてしまっていましたが、この方法だと形はきちんと作れるものの、腫れが長引き出血の危険も大きいので、最近では耳の表面の目立たない部分も切開して、なるべく侵襲の小さい手術を心がけています。

耳が頭蓋骨につくほどぺったりと寝かせてしまうヨーロッパ式の手術はむしろ簡単で、斜め45度の微妙な角度をうまく作り出して不自然さをなくすところにこの手術の難しさがあります。一度の手術では左右がきれいに揃わないことも残念ながら皆無ではありません。そうした場合は再手術の時期をご相談しながら、できる限りご希望に近づけるように努力しています。

|

耳の形成外科: 小耳症(3)永田先生のこと

小耳症の話をするとき、永田先生の手術を避けては通れないでしょう。永田先生の創る耳は、本当にきれいな形で、細部までよく考えられた立派な作品です。
永田先生の軟骨フレームは耳たぶや耳珠まで丁寧に彫刻されており、芸術作品といってもよいくらいです。その手術も、耳起こしまで含めて大変見事なものです。しかし…

その考え方は、私が最初に習った一色先生の耳つくりとは対極にあるような気がします。うまくいえないのですが、あえてこんな言い方をしてみました。
「確かに耳はすばらしくよくできている。耳を創る手術なのだから、耳が美しく出来上がっていることが一番重要で、そうした意味では最高点を付けてもよい。だが、耳にこだわりすぎるあまり、全体のバランスを見失ってはいないか。耳のためにこれだけの大掛かりな手術を行うことが果たして無条件でよいことなのか。耳は確かに人の見た目にとって必要なものではあるが、考えようによっては、たかが耳ではないか」

永田先生とお会いしたことは一度しかありません。ドイツ留学中に出席したヨーロッパ形成外科学会で招待講演をされたときのことだったと思います。講演自体非常に質の高いものでしたし、質疑応答のとき間違いがあってはいけないとのご配慮からか通訳を付けて日本語で受け答えされていたのも、潔い態度だと感心しました。
そのとき永田先生が「もう僕は日本の学界に未練はない。日本の学界は見捨てた」とおっしゃっていたのをよく覚えています。

ではなぜ、海外でも高い評価を受けている永田先生の手術が、なかなか日本では評価されなかったのか。(もちろん現在ではそんなことはないのでしょうが)

一つには、永田先生が並み居る日本の「小耳症の大家」たちの手術を「永田の手術の足元にも及ばないもの」と切って捨てたからでしょう。新しい術式が考え出されるときは、既存の術式の欠点を除き、より完成度の高いものをめざす訳ですから、こうした「高慢さ」はある程度許されるべきだし、また自分が世界一と思わなければ競争の激しい世界では生き残れないのも事実です。ですが、永田先生の手術が彼の意に反して高い評価を受けなかったのは、永田先生ご自信が嘆いておられたように彼が日本の学界に理解されなかった、のではなく、実は彼が「日本における標準的な小耳症手術の考え方」を理解できなかったからではないでしょうか。

永田先生の手術が欧米で高い評価を受けるのも当然なら、日本で苦労なさったのも当然だと私には思えます。日本の文化においては、耳の形のバリエーションには寛容で、耳は完全な形であることを要求されません。(それが、立ち耳もスタール耳も悪魔の耳といって忌み嫌う欧米との文化的な違いです)

日本ではむしろ「たかが耳」のために体の他の部位を傷つけることには消極的で、もしやむを得ないならできるだけ簡素で侵襲の小さい形で行うべきだとする考え方が主流なのではないでしょうか。(これは他の部分の再建や美容手術にも通ずることです)

もちろん、不完全な手術を受けてそのせいで悩んでおられる方にとっては永田先生は神様のような存在でしょうし、彼のような「耳つくりの職人」の存在こそが、小耳症の手術を発展させるためには必要不可欠であることは確かです。

しかし、彼が日本で長い間不遇であったのは、学会の重鎮たちが不当に彼の業績を無視したからではなく、彼が日本の長い間の伝統的な文化になじめなかったのではないか、という方向から、考察を加えてみました。

|

耳の形成外科: 小耳症の手術(2)

小耳症の手術は、肋軟骨フレームを移植して終わりではありません。フレームと皮膚が十分なじんだ頃に、通常は耳起こしとよばれる手術を行います。

頭蓋骨に張り付いたようになっている耳を起こして、耳の裏側を作ってやるわけです。当然そこにはあるべき皮膚が存在しないわけなので、周囲の皮膚を動かして皮弁という方法で塞いだり、足りない部分を植皮する必要があります。(最近ではこの2段階手術を避けるため、最初に軟骨を入れる部分を袋状に膨らませておく手術も行われていますが、これはこれでまた、皮膚がちょうどよく伸びるまで数ヶ月の時間がかかります)

中には耳に当たる部分にも髪の毛が生えているために、作った耳に毛が生えて困る、といった方もいて、脱毛処理が必要になったり、軟骨や皮膚のつなぎ目の一部がトラブルを起こして小さな修理が必要になったりと、やはりどんなに上手な先生が作った耳でも、神様が作った自然な耳にはかないません。

また肋軟骨は、耳の軟骨とは性質が違い、硬くてもろく、継続的な力が加わると変形したり吸収されてしまうという欠点もあります。そのため、自然な耳よりもしっかりと分厚いフレームが必要になり、やや肉厚で硬い耳になってしまいます。これを避けるには、やはり肋軟骨ではなく耳の軟骨を使うほうがいいのですが、まだ日本では「他人から軟骨を貰う」同種移植は普及していません。

幸い耳介軟骨は移植に際して免疫反応が起こりにくく、他人の軟骨でもちゃんと自分の耳のフレームになってくれます。生体からの耳介軟骨移植では、小耳症ではありませんが冨士森先生が母親から子供への移植を以前から成功させておられ、長期にわたって安定的に生着することを学会でも発表されています。(…発表したのは、当時冨士森先生のところに在籍していた私なので、よく覚えています…)

シリコンなどの人工物では不安が伴う以上、自分の「幹細胞」で軟骨が思い通りの形に作れるようになるまでは、死体からの耳介軟骨移植などを移植医療としてもっと普及させてもいいのではないかと思うこのごろです。

|

耳の形成外科: 小耳症の手術(1)

最初に小耳症の手術に入ったのは、研修医1年目、京大の形成外科に所属していた頃のことでした。執刀医は一色先生で、耳つくりに使う肋軟骨の採取を、伊波先生(現:クリニカいなみ)と一緒にやらせてもらったように記憶しています。

京大形成外科は、昭和52年に当時二つに分かれていた「耳鼻科形成」と「皮膚科形成」が一緒になって誕生した教室で、初代教授は耳鼻科出身の一色先生(現:一色クリニック)でしたから、当然耳や鼻の手術を受ける患者さんが非常に多く、当時の西日本の小耳症の患者さんの大部分が京大に集まってきたのではないかと思えるほど、耳の手術は次から次にありました。

小耳症とはご存知の方も多いと思いますが、片方の耳が極端に小さい状態を言います。場合によっては痕跡的で耳の穴もないような重症な患者さんもいます。一色先生の耳作りは当時から有名でしたが、その特徴を一言で言えば、肋軟骨から作る耳のフレームが簡素なことではないでしょうか。

それは、言葉を換えれば、採取する肋軟骨の量が少なくて済み、手術時間も短く、患者さんへの侵襲が小さいということでもあるように思います。現在はより多くの軟骨を取れるだけとって、組み合わせて細かい部分まで作りこんだ軟骨フレームがはやっているようですが、それに要する時間や患者さんへの負担を考えると、どちらがよいかはなかなか難しい問題だと思います。

肋軟骨を採取してフレームを作るには、耳の大きさがある程度大人に近づき、軟骨がまだ大人の様には固くなっていない、若い患者さんが最適なのですが、その時期のお子さんは非常にセンシティブでもあり、耳のためにどの程度体のほかの部分に負担をかけるかについては、単に手術のしやすさだけでなく、精神的な要素やその患者さんの生活歴なども考える必要があります。

それを考えると、今では廃れてしまった、シリコンの耳、というのも、体のほかの部分に傷を付けずに済むという点では、本当はなかなか捨てがたい優れた方法であるように思います。ただ、シリコンに限らず人工物は、何年たっても結局人体にとっては異物であり、何か事故があれば感染を起こして取り出さなければならない、という欠点を抱えています。

では、なぜ鼻に関してはシリコンが生き残り、多くの美容外科で今も使われているのでしょうか。
鼻に使われるプロテーゼは、形が非常にシンプルです。この辺に、耳のフレームをシリコンで作る際の工夫の余地がありそうに思います。それはまた、一色先生のシンプルな軟骨フレームのよさを見直すことともかかわってくるようにも思えます。

現在は、大江橋クリニックでは軟骨フレームの作成を行う小耳症の初回手術は行っていませんが、耳の手術にかかわりを持つ医師としては、この分野でももっと技術が進むといいなあ、と常に関心を持っています。

|

わたしがマカーになったわけ(5):ハングルトーク

漢字トーク7は、アイコンのカラー化、マルチファインダの標準化、システムフォルダの階層化など様々な意欲的な新機能が取り込まれ、それ自体は画期的なOSであった。しかし、わたしが最も待ち望んでいた「多言語環境に対応したシステム」という機能は、当初のバージョン7.0では実現されず、相変わらず「韓国語と日本語が混在したワープロ文書を作りたい!」という希望はかなえられなかった。

ちょうどその頃、ソウルで形成外科の国際学会が開かれることになり、私はこのチャンスに何とかして韓国語のシステムを手に入れようと、実に不純な動機で韓国旅行を決行した。

まだまだ実用には程遠い片言の韓国語とこれまた片言の英語で、韓国でもあまりメジャーではないMacのそれも「別売は基本的にしていない」OSだけを安く買おうというのだから、まあそれなりの苦労はしたのだが、それはこの際おいておく。

結果として私は江南(カンナム)のコンピュータショップの片隅で「展示品」として置かれていたMacに付属する「ハングルトーク7」を、その店の店員からこっそりと10万ウォンほどで手に入れることができた。(この店員は、おまけにといって韓国語版クラリスワークスやナイサスライターなど、そのマックにインストールされていた数々のソフトもフロッピーにコピーしてくれたのだが… 彼もよく分かっていなかったのか、初期設定ファイルなど、正常に動作するのに必要なファイルがコピーされていなかったため、それらの「違法コピー」は結局日本では動かなかった)

入手経路はまあなんと言うかむにゃむにゃ…ではあったが、日本に持ち帰ったのは純正版の(ただしアップグレード用)ハングルトークであったので、付属の説明書を辞書を引き引き読んで、ついに私のMacは、英語+日本語+韓国語のハイブリッドシステムという、いかにも怪しげなOSで動く、不思議なコンピュータになった。
(実はそれ以外にも、システムの中身をいじってアイコンの見た目を変えたり、さまざまな改造が加わり、クラッシュしないのが不思議なくらい危ういシステムにしてあったのだが、Macは結構柔軟性があると見えて、データを失うなどの不幸な事態には至らなかった)

もっとも、この経緯を引きずっているため、私のMacには今でもちょっとした弱点がある。

この時代に作ったファイルをいくつか開いたり編集したりした後は、システム標準のエディタを立ち上げると、なぜか標準文字入力が韓国語モードになってしまい、文字化けや挙動不審なカーソルの動きなどは再起動するまで元に戻らない。

こんなときは、馬鹿なことに非常な勢力と膨大な時間をつぎ込んだことをちょっと後悔するのである。

|

私がマカーになったわけ(4): System 7

 私がMacに期待したもう一つの理由は、多言語性であった。

 Macはアメリカ生まれのコンピュータでありながら、GUI (Graphic User Interface) と WYSIWIG (What You See Is What You Get:モニタ画面に表示されたのと同じように印刷できる) を標榜していたこともあってハードウェアに頼らずソフトウェアで様々な文字を画面に表示し、印刷することが可能であった。もちろん文字はすべてソフトウェアがビットマップで処理して画面表示するので、動作が重く、軽快なスクロールなどは無理だったが、そのかわりフォントファイルさえ用意すれば、アルファベット以外のアジア系言語でも問題なく表示できた。

 学生時代から私は様々な言語に興味があり、とりわけその頃は韓国語(ハングル)を独学していたから、韓国語を表示でき、可能ならば1つの文書の中で日本語と混在できるようなコンピュータが欲しかった。当時Macはもちろん韓国でも、それどころかチベットやインドでも使用され、それも英語ではなくその国の言語に準拠したシステムで動いていたから、それは可能であるように思われた。

 私が買ったⅡciには漢字トーク6.0.7というバージョンの日本語純正システムがインストールされており、FEP (Front End Processor)の2.1変換は使いにくかったものの、ATOK等も使えるので日本語使用には問題がなかった。(ただ、ソフトによっては2バイト文字の存在を想定していないため1バイトの英語システムでしか動作しないものがあり、そうしたソフトを使う際には再起動して英語システムに切り替える必要があった)

 また、裏技として、日本語システムの上に英語システムを上書きして、メニュー表示を英語にしてしまう(ファイル、編集 よりFile, Edit の方が格好良い!)とか、一部のシステムファイルを英語版のものに取り替えてハイブリッド化するといった方法が知られており、そうした面でもかなり柔軟性がありそうに思えた。

 一方、そのころようやく姿を現しつつあったWindowsの初期バージョンやMS-DOSでは、ドイツ語のウムラウト(アルファベットの上に点々)を表示することも非常に困難で、プリンタで印刷した紙に手書きで点々をうたねばならないような有様であった。

 それならば、このMacに韓国語システム(ハングルトーク)をインストールして、ハイブリッド化してしまえばよい。そう考えたのが、例に拠って苦労の始まりであった。

 調べてみると、同じことを考える人はいるもので、当時販売されていた唯一の日本製多言語ワープロであったAll Scriptは、使いたい言語のシステムをハイブリッド化することによって言語の混在を可能にするソフトらしかった。そこで問い合わせてみると、確かに「韓国語システムを用意していただければ」韓国語との混在は可能だという。

 ところが!ハングルシステムとハングルフォントを入手することがこんなに難しいとは。韓国人や在日の友人がいたわけでもなく、単に興味から独学で韓国語を勉強していただけだったので、入手先がまったくわからない。いろいろと聞きまわったあげく、シンガポールにあるアップルのアジア支社につたない英語で問い合わせてみると、確かに各国別のシステムはあるものの、それぞれのシステムはそれぞれの国内でのみ販売が許可されており、韓国語システムは韓国に行かなければ買えないという。それも当時韓国ではシステムのみの単独販売は行っておらず、もしハングルトークが欲しいなら、最低でも日本円で40万円ほどするマック本体(当時発売されていたMac Classic)と一緒に買う必要があるというのだ!

 これではたまらない。私は、やがて発売される「マルチリンガル」システムといわれるシステム7に期待することにした。

|

私がマカーになったわけ(3): Macintosh Ⅱci

 Ⅱciを買ったのは、私が医者になったということと深くかかわっている。

 当時私は冨士森形成外科に勤務していて、症例写真をもとに学会発表スライドを作ったり、発表用ポスターを作ったりする機会が度々あった。その頃の学会スライドといえば、ワープロで印刷した(あるいは場合によっては手書きの)白黒の文書を「スライド屋さん」に持っていって青焼きしてもらう「ブルースライド」と、マクロ付1眼レフ(もちろんアナログの銀塩)カメラで撮った35ミリのカラーリバーサルスライドを順番に束ねたものが主流だった。

 つまりほとんどの発表演題が、ブルーバックに白抜き文字の題字で始まり、同様の説明スライドが数枚あって、カラーの症例スライドが何枚か(「これが術前です」「こちらが術後1ヶ月です」なんていう解説付きで)続き、最後にまた青地に白のまとめ、という形式になっているわけだ。

 ところが国際学会などでは(あるいは海外からの招待講演にくる著明なプロフェッサーの場合は)きれいなバックグラウンドカラーに華麗な色つき文字、説明の文字や矢印が入った写真など、何らかの画像加工をしたスライドでかっこいい発表をするドクターが増えつつあった。

 大学などに所属してそれなりの予算を付けてもらえるのなら、そうした加工をプロのスライド屋さんに依頼することもできるのだが、個人でそうしたことをやろうと思うと、当時は非常に大変だった。そうしたことが個人レベルでかっこよくできる手段として、わたしが目を付けたのがPhotoshopという画像編集ソフトであり、そのソフトが使えるコンピュータがMacだったわけだ。

 Macがグラフィックに強いのは医療界では有名で、医者仲間ではMacが普及しつつあったが、まだ個人で買うには高価で、大学や病院の医局などで購入するケースが多かった。なにしろ、スライドを作ろうと思えば本体だけでは話にならず、20万円以上するPhotoshopなどの画像ソフトが必須であるのに加えて35ミリスライドやレントゲンフィルムなどを読み込める透過型スキャナ、35ミリのカラーリバーサルフィルムに画像を直接記録するフィルムレコーダーなど、一つ一つの機器が中古車1台買えてしまう値段なのである。(ソフトについてはINHが研究者向けに無償で配布しているImageソフトが入手可能だったが)

 私は130万円以上のローンを組んで、何とかⅡciの本体と13インチモニタ、35ミリスライド専用のフィルムスキャナ(当時としてはかなりハイレベルの1850dpi)といくつかの画像ソフト、録音用機器とサウンド編集ソフトなどを手に入れたが、残念なことに作った画像を記録するフィルムレコーダーまでは手が出なかった。

 画像をフィルムに記録するのに最適なのは、当然4000dpiの高解像度で記録できるフィルムレコーダーなのだが、その廉価版として、写楽(たしかこんな名前)という機械がそのころ発売されたように思う。何のことはない、機械に内蔵された小型の高解像度モニタに画像を映し出し、それをこれも内蔵されたアナログカメラで写真に撮るといういかにもな構造である。それでも結構高くて30万円近かったように記憶している。

 それならばというので、真っ暗にした室内で13インチカラーモニタに映し出した画像を、向かい合わせに置いた1眼レフカメラで撮影してみたりしたのも懐かしい思い出だ。(さすがにこの方法では、大きな会場に投影するレベルの解像度は得られなかった)

 結局のところ、フォトショップを使ってかっこいいスライド、という試みは、画像を作るところまではいいのだが、出力の段階でプロのお世話にならざるを得ないという少々不本意な結果となった。当時のスライド出力サービスは、Mac専門の出力センターでスライド1枚2000円ぐらいかかり、駆け出しの身には少々つらい出費であった。

|

私はなぜマカーになったのか: Macintoshに出会うまで(2)

 東芝のDynaBookSS001は、衝撃的なコンピュータだった。

 当時のパソコンは、デスクトップかラップトップ。デスクトップは本体の上に鎮座するモニタがブラウン管だから、当然持ち歩ける大きさではない。持ち歩ける大きさとしてのラップトップは、しかし、重さも5キロ以上は優にあって、本当に膝に乗せたらラップクラッシャーといわれるようなものであったからだ。
 ラップトップは価格も先に書いたように、安いものでも数十万円。東芝の真っ赤なプラズマのモニタ画面は魅力的ではあったが、主に企業向けであって個人で気軽に買えるようなものではなかった。

 そこに、重さ3キロのノートタイプのパソコンが198,000円で登場したのだから、飛びついた人は多かったと思う。もちろんフロッピーベースで、ハードディスクは内蔵されていない。しかし、メモリが1.5MBと、当時のMS-DOSのメモリ管理の制限640KBより多く、余った部分をスワップメモリやRAMディスクとして使うことができた。

 当然買ったわけですよ、ええ。

 当時パソコンを買った人の多くが、パソコンを「高機能なワープロ」として捉えていたのだろうと思う。モノクロ画面で画像処理機能は貧弱で、スキャナもとんでもなく高く(私が最初に買ったスキャナは40万円以上した)、表計算ソフトは未発達で、インターネットどころか通信機能もなくて、データベースといっても住所録ぐらいしか思いつかないなら、パソコンでできることは年賀状印刷と簡単な文書作成ぐらいしかない。実際、雑誌のパソコン特集もほとんど「年賀状と住所録」の作り方ばかりだった。

 だから、私が「ワープロソフトは持っていない」というと、周囲の人々はパソコンを何に使うのかと訝った。だが私にしてみれば、すでにワープロは専用機を持っているのである。ワープロではできないことをするためにパソコンを買ったのだから、パソコンにワープロソフトは不要だというのが持論だった。何しろパソコンに繋げるプリンタすら持っていないのだ。(ほらほら、こういうやつなんです、私は)

 では私はパソコンで何をしていたか。すでにソフトとハードの本を山のように読んで、当時一丁前のパソコンお宅と化していた私は、パソコンをいじること自体が楽しかった。文章はエディタで書けばいいし、印刷するならワープロ専用機にデータを移せばいい。それよりも、システムをカスタマイズして本来の仕様にないことをさせたり、巨大なバッチファイルを組んでデータ整理を自動化したり、といったことにはまっていたのであった。

 え?Macはどこに出てくるのかって? いや、この段階では、私にはマックは高嶺の花でして、知ってはいたが買えない存在でした。Macintoshは、グラフィックや音楽や出版などのプロフェッショナルが使うものだと思っていました。最初のMacが、Rest of USのための知的自転車として企画されたなんてことも知りませんでした。様々なすばらしいゲームがMac用に作られていて、ゲームをやるためにMacを買う人がいたり、なんてことも知らなかったのです。ごめんなさい。

 私がMacを買えるようになるのは、医者になって3年目、ようやく安定した給料がもらえるようになってからだった。本体にモノクロモニタが内蔵され、中を開けようとすれば特殊工具が必要な、ブラックボックスのような存在だったMacが、セパレートタイプになり、カラーが標準的に扱えるようになったⅡシリーズが発売され、そしてついに本体価格が100万円を切った。

 私は、Ⅱciを本体68万円、その他Photoshopやらフィルムスキャナやらカラープリンタやらもろもろ合わせて130万円ほどで買い(もちろんローン)、ようやくマカーに成れたのであった。

 

|

私はなぜマカーになったのか: Macintoshに出会うまで(1)

 今クリニックで使っている電子カルテは、Windowsでなければ動かない。しかし、私は筋金入り(笑)のマカー(Mac使い)で、開業するまではWindowsを触ったこともなかった。

 もちろん私がコンピュータというものに初めて触れた30数年前には、Macというコンピュータはまだこの世界に登場しておらず、それどころかパソコン(パーソナルコンピュータ)という言葉すらなかった。(このあたりのことは、いずれ稿を改めて書くつもりだ。)

 学生が個人で買えるコンピュータといえば、プログラミングのできる関数電卓(いわゆるポケコン)か、自作のキットぐらいだった。個人で所有できるコンピュータは、ミニコンよりも更に小さいマイクロコンピュータという意味と、自分のという意味を兼ねてマイコンと呼ばれていた。
 そのころ京大にはマイコン部というのがあって(私は所属していなかったが)マイコン部の学生の中にはApple Ⅱを持っているものもいた。しかし当時の私には、アップルはまだ別世界の存在だった。

 日本においてパソコンの普及にもっとも大きな役割を果たしたのはNECの9801シリーズだと思う。私が最初に、真剣に買おうと思ったのもやはりPC98だった。
 しかし、私はいわずと知れたへそ曲がり。ベストセラーとか売れ筋と聞いただけで敬遠してしまうぐらい「はやり物」が嫌いである。(そのおかげでいらぬ苦労を背負い込んだ経験は数知れず)そのくせ新しい物好きだから、買おうと思ったのは、当時最新のPC98XAという機種だった。

 98XAは売れ筋の9801シリーズとは違い、ハイレゾモードといって画像解像度が段違いに細かく画面が非常にきれいだった。しかしその代償として、PC98なのに9801シリーズのソフトが使えない(専用ソフトが必要)という欠点を持っていた。
 当時、コンピュータのソフトは一つ一つがとんでもなく高額で、本体を買ったもののソフトが買えず「コンピュータ、ソフトなければただの箱」などという川柳を地で行くような人もいた。付属ソフトどころかOSも別売だったりして、ワープロだけにしか使えないPCとワープロ専用機とどちらが便利か、などという記事が雑誌に載るような時代だった。

 しかし、ハードは作れないがソフトは買えなければ作ればいいと考えていた私は、パソコン本体を買う前にまず解説書の類をどっさり買い込んで、コンピュータのハードウェア・ソフトウェアの勉強をはじめた。(じつは本体を買うには絶望的にお金が足りなかったのだ。当時のコンピュータは、まともに買えばソフト込みで小型車が一台買えてしまう位だったのだから。)

 当時Windowsはまだないから、98を動かすOSはMS-DOSだった。MS-DOS関係の本は隅から隅まで読んだ。(MSがマイクロソフトの意味だということはそのときに知ったが、そのころのマイクロソフトはまだ数あるソフトメーカーの一つに過ぎず、今のような隆盛は想像すらできなかった。)また、ハードウェアである98XAの技術解説書も手に入れて、UNIXもちょっとかじって、と一体本業は何?といいたくなるほど熱中した。

 でも、結局98XAを私は買わなかった。私が最初に買うことになるコンピュータは、それから数年後に登場するDynaBook。それまでは、不本意ながらコンピュータより格段に安いワープロ専用機を使っていた。ワープロについては、別に書くことにする。

|

眼瞼下垂症手術と私(9) 再手術

同じように見える手術でも、人により、まぶたの状態は実にさまざまです。特に再手術の場合は、(1回目の手術を他の術者が行っていた場合はなおさら)内部の瘢痕がどうなっているか、糸がどのあたりに固定されているか、など分からないことが多く難しいものです。

私は、原則的に、他の術者が行った手術の再手術はしないほうがよいと思いはじめました。
かつて症例も徐々に増えて、眼瞼下垂の手術が得意になってきた、と自信がついてきたころは、他の医者に失敗された、と悲壮な顔で診察に来る患者さんをみると、気の毒でもあり、自分ならこんな失敗はしないという思い上がりもあり、何とか救ってあげたいと再手術を気軽に引き受けていました。

しかし最近では、うまくいかないのにはうまくいかない理由があるのだと思うようになって来ました。
そもそも、眼瞼下垂の手術というのは、傷痕直しなどに比べると定型的で術式も何種類かに分類はされるものの、ある程度標準化されています。
少なくともこの手術を行っているとわざわざ広告するほどの医療機関であれば、同種の手術を数多く繰り返し行っているはずで、通常の技量を持つ医者ならとんでもないミスをするはずがないように思えます。

そうであれば、通常考えられないような結果に終わるのはなぜでしょうか。患者さんの体質や生活習慣や行動パターンの中に、医師があまり想像しないような、あらかじめ想定していないような原因が潜んでいるのではないでしょうか。

そうした原因は、初対面の短い診察時間の中では気づくことができず、術後の経過の中で初めて明らかになってくるのではないでしょうか。
それを単純に、最初の術者が下手であった、と思い込むのはとても危険なことです。むしろ、最初に手術を行った医師が、術後に何が起こったのかを考えて、思い当たる原因をできる限り排除した上で再度挑戦するほうがよい結果を生むのではないでしょうか。

そう考えて、再手術の相談に来られた患者さんには、できるだけ手を下した医師の下に帰るようにお話しすることにしています。お引き受けする場合にも、前のお医者さんから、どのような手術を行いどのような結果になったのかが分かるような紹介状をもらってくるようにお願いしています。

|

眼瞼下垂症手術と私(8)

手術の数が増えてくると、必ずしも教科書的な手術では対応できない患者さんもそれなりに増えてきます。特に、過去に同様の手術を受けてうまくいかなかった人の再手術は難しいものです。

私自身は、城北病院・専売病院(現・東山武田病院)でたくさん手術を行うようになって、術式が大きく変わりました。
一つは、前にも書きましたが、寺島先生の後を引き継ぐことになって、これはいい加減なことはできないぞと、もう一度各種の手術法の文献を集めておさらいしたからでもあります。もう一つは、手術を重ねるうちに体得したコツのようなもの、他の先生方が執刀してうまくいっていない症例などを通して、「なぜ今までの術式ではうまくいかないことがあるのか」がだんだんつかめてきたからです。

現在は、私の手術はほぼ全例、帝京大学の久保田先生の術式に似た眼瞼挙筋短縮前転法で行っています。(但しいくつかの点で考え方の違いもあり、正確には今までいろいろな先生に教えていただいた方法のミックスともいえる術式になっています。)

結膜には意図的には穴を開けません(したがって、角膜保護板や挙筋クランプなどの特殊器具は一切使いません。)
横走靭帯は(再手術などですでに切断されている場合を除き)切断しません。ミュラー筋は切除しません(切断はします。)
先天性の場合を除き、結膜の剥離は約1センチ幅に留めています。
眼窩隔膜は眼瞼挙筋腱膜との折り返し点付近で切開しますが、脂肪の切除は原則として行いません。
筋膜断端と瞼板とは通常3箇所固定します。
皮膚切除はほぼ全例行います。
眼輪筋は切除する皮膚幅の半分程度切除します。
筋肉の短縮前転量は、後天性で挙筋の機能障害がない場合は8ミリと決めています。(6ミリ短縮2ミリ前転)

最近は術中・術後の点滴、テーピング、内服薬などの工夫によって、術後の腫れも極めて軽微にできるようになりました。テープは3日間貼っていただきますが、洗顔は翌日からしてもらっています。
抜糸は1週間後ですが、テープを外してしまうと何も貼らずに外出されてもさして奇異な感じはしない程度です。

|

眼瞼下垂症手術と私(7)

2005年には、KBS京都放送のラジオ番組でまぶた外来についてお話しする機会も与えられ、その年の年末に城北病院を退職するまで、城北病院のまぶた外来は続きました。
その間、当時の同僚であった岩城先生(長岡京のいわきクリニック)や近藤先生(神戸市北区の甲北病院)にも手術についてもらい、岩城先生が独立開業されてからは、専売病院の方の手術は近藤先生に代わっていただいて、自分の手術は城北病院で行うスタイルになりました。

当時、京都市内で眼瞼下垂の手術を数多く行っていたのは、これも城北病院から独立開業された鈴木晴恵先生(京都・鈴木形成外科)、京都府立医大眼科形成と城北病院の3ヶ所ぐらいではなかったかと思います。

鈴木先生は城北時代はあまり眼瞼下垂の手術は行っておられなかったようですが、信州大学の松尾先生に習われた術式をマスターされたとのことで、独立されてからは松尾式の眼瞼下垂手術で有名になり、今も多くの患者さんが訪れているようです。
私はちょうど先生がお辞めになるのと入れ替わりに城北病院に勤務することになったので、実際に鈴木先生がどのような手術をされるのか拝見したことはないのですが、各クリニックを相談に回っている患者さんや、別件で私の診察を受けられた患者さんなどを見る限り、丁寧な手術をされているようにお見受けしております。

最近では、このほかにも眼瞼下垂の手術を手がけられるドクターが非常に増えてきました。後天性のいわゆる老人性やコンタクトレンズ性といわれる患者さんを含めると、患者さんの数は非常に多いので(松尾先生の説によれば日本人の7割は眼瞼下垂とか)、多くのドクターが競い合うことで技術が高まっていけばいいなあと思っています。

患者さんのほうも、ネット情報に振り回されて一人の医者に集中するのではなく、お近くのお医者さんに行ってみればいいのに、と思います。どの先生も真剣に勉強してそれぞれに技術を磨いていらっしゃると思います。

|

眼瞼下垂症手術と私(6)

再び眼瞼下垂の手術をたくさんするようになったのは、城北病院に勤務してしばらく経ってからでした。当時、京都桂病院の形成外科部長をされていた前述の寺島先生が退職されることになりました。
寺島先生はそのころ同時に、週1回城北病院の月曜夜の外来も担当され、また月に1~2回、京都専売病院(現・東山武田病院)眼科で瞼の手術なども担当されていましたが、それも同時にお辞めになりました。

そこで、専売病院の眼科の先生から、その後任として私に瞼の手術の依頼があったのです。大変優れた術者でもあり、私の先輩で手術も基礎から教えていただいた先生の後任ということで、かなり迷ったのですが、寺島先生の『あなたは手術はできるんだから、後は経験を積み重ねていくだけ』との言葉に後押しされて、お引き受けすることにしました。

専売病院では、眼科の先生があらかじめセレクトしておいた患者さんをまとめて月に1~2回手術するという形をとっていました。
最初の患者さんは、半年前に片方の瞼を新井先生(現・城北病院)が手術され、大変きれいに上がったと喜んでおられた男性でした。それで今回、その反対側を手術することになったのですが、私としてはそれは結構なプレッシャーでした。幸い私が担当した側もうまく行き、その後担当した多くの患者さんの手術も眼科の先生に「100%うまくいっていますね!」といっていただける成績だったので、次第に私も『眼瞼下垂の手術は得意分野」と言えるだけの自信を付けていくことができました。

そのころから、京都市内の眼科の先生方から眼瞼下垂の患者さんを紹介いただけるようになり、また口コミで遠方から診察にこられる患者さんも増えてきました。
城北病院では私の外来はニキビの患者さんが大変多かったのですが、その間に瞼の診察が入ると、瞼の悩みの患者さんの診察には大変時間がかかるため、診察の待ち時間が非常に延びて、夜8時に受付終了しても終わるのは午後10時過ぎということが多くなりました。

そこで、比較的患者さんの少ない火曜日に「まぶた外来」を開設してもらい、専売病院とあわせて毎月10名ほどの患者さんをコンスタントに手術できる体制になりました。

|

眼瞼下垂症手術と私(5)

2年間の研修を終えて、私は現在も京都で活躍されている冨士森先生の下で勉強することになりました。当時は冨士森先生も現在にもましてお元気で、非常に数多くの手術を精力的に行っていました。2つの手術台を平行して使って、全身麻酔の手術を1日8例とか、朝から晩まで局所麻酔の手術を20例とかいう状態でしたから、短期間でさまざまな手術を学ぶことができました。

典型的な眼瞼下垂の手術は多くはありませんでしたが、その反面、義眼で変形した瞼の再建とか、やけどやあざで切り取った瞼を植皮で治すといったさまざまな技法を学ぶことができました。

大腿筋膜を使った吊り上げ術をはじめて教えていただいたのも、冨士森形成時代です。手術に使う筋膜をどのように取り出したらよいか分からず、太ももの辺りに切開線のマーキングをしたら、膝の上に開けた小さな穴から取り出すのだと怒られたり、筋膜の端を眉の上に出したまま手術を終えて、1週間後に『増し締め』をするとか、教科書に書いてないさまざまなことを教えていただいたことが、つい昨日のことのように思い出されます。

眼瞼下垂とは直接の関係はありませんが、顔面神経麻痺で瞼が下がった患者さんには眉の吊り上げをしたり、凹んだ瞼に脂肪注入をしたりと瞼の手術に関してはここでの経験が大変役に立っています。

私はその後、千石荘病院・岸和田市民病院で一人で手術を担当するようになりましたが、留学時代を含め、冨士森以降の数年間は眼瞼下垂の患者さんは少なく、先天性の患者さんが年に数人来る程度で、技術的進歩も大きいものではありませんでした。

|

眼瞼下垂症手術と私(4)

当時寺島先生が行っていたのはいわゆる教科書的な手術でしたが、これは「教育ビデオを撮影する」という目的からも当然であったと思います。

このような術式では、まず瞼の表面をふたえの線で切開し、年配の方の場合は余分な皮膚を数ミリ幅で切除します。その後、瞼板前組織と呼ばれるぬるぬるした、脂肪と筋肉と結合織が混ざったような組織を切除し、瞼板(眼科の検診のときにお医者さんがくるっと裏返すみかんの袋のような形をした板状のもの)にくっついている眼瞼挙筋腱膜を探し出して、腱膜を奥のほうまで剥離しながらたどります。

その後、瞼板のすぐ上に2箇所穴を開けて、挙筋クランプといわれる器具で腱膜と結膜を一緒にはさみ、挟んだ腱膜と瞼板を切り離します。そして結膜と筋膜を分離し、クランプではさんだ幅で筋膜を上のほうまでおよそ2センチ幅弱の短冊状に剥離していくことになります。

筋膜は瞼板の近くでは左右に広がって、イチョウの葉のように、ガチョウの脚のようになっているのですが、上記のような操作を行うと、筋膜の両端を切り落としてしまうことになります。(内角と外角の切り離し、という手術法です。)これをすると、筋膜は引き出しやすくなり、引っ張れば何センチもずるずると出てくるのですが、その反面、固定性が弱まるため瞼板に再び縫いとめるときの調節が難しくなります。

手術中に何度も患者さんに眼を開けてもらって、内側が上がりすぎた、おや今度は外側が、と微調節を繰り返すのがなかなか大変でした。また、クランプで挟んだ部分は結膜と筋膜がくっついたままで、しかもしっかりと金属ではさまれて押しつぶされて(ザメツして)いるので、切り取って捨ててしまわなければなりません。

そうした理由で、私は現在ではこの術式を行うことはないのですが、基本的な手術の修練と瞼の構造の理解には大変勉強になりました。
この方式で私が手術をした患者さんは、おそらく20数人ぐらいであったと思います。

|

眼瞼下垂症手術と私(3)

こうした経験をした上で、ようやく上の先生について実際の手術をさせてもらうわけですが、みるとやるとは大違い、はじめの2~3人の手術に関しては、当時の患者さんにお会いしたらお詫びしなければならないような腕前であったことは白状しなければなりません。

両眼の手術を行うとき、はじめに片方を上の先生が行い、私は反対側を同じように後追いしていくのですが、先輩が何気なく周囲の組織と分けて引っ張り出す筋肉が、私の側はなかなか見つけられなくて、ピンセットで探ってもはさみで切っても出血するばかりでどんどん視界が悪くなっていく、そんな胃の痛くなるような経験をしてしまったこともあります。

それでも、何度も繰り返して手術を見た経験は非常に有用で、結膜と筋肉のほんのわずかな色の差、光の差を見分けてその間をはさみで剥離していくと見事に瞼の筋肉がずるずると出てくるという感覚は感動的ですらあり、早くこの手術がうまくなりたいなあ、と思ったものでした。

このころは「腱膜性眼瞼下垂」という言葉はポピュラーではなく、そうしたものは押しなべて「老人性眼瞼下垂」と呼んでいました。こうした、後天性・老人性といわれる眼瞼下垂に対しては、挙筋腱膜のタッキングが簡単でよい方法であると野瀬先生に教わり、実際に、あまりきちんとした剥離をせずに3針ほど糸で留めるだけでパッチリと眼が開くのに感動したのもよく覚えています。

|

眼瞼下垂症手術と私(2)

当時、眼科での白内障の手術後に発生する後天的な眼瞼下垂が問題となっていて、眼科の患者さんが非常に多かった県立尼崎病院ではそうした患者さんが次々と形成外科に紹介されてきていました。
私たちは、こうした単純に老人性とは言い切れない、術後を含めた後天性眼瞼下垂の原因究明が必要と考え、そうした患者さんを積極的に受け入れて手術を行っていました。
(当時は、教科書的には眼瞼下垂は先天性と老人性、外傷性ぐらいしか分類されていませんでした。)

私の学会発表デビューも、眼瞼下垂症患者の眼瞼挙筋を先天性と後天性に分けて組織学的検討を行う、というテーマでした。
先天性の眼瞼下垂症患者の眼瞼挙筋は筋肉組織がほとんどなく脂肪に置き換わっているという発表をしたのですが、そんなことも当時はまだあまりよく分かっていませんでした。

また、寺島先生が、その年の形成外科学会総会で「眼瞼下垂手術」の教育ビデオを発表される関係で、県立尼崎病院ではほとんどすべての眼瞼下垂手術のビデオ録画を行っていました。

私は初めのうち、上の2人の先生が執刀する手術を克明に録画するビデオ係でした。これは非常にラッキーなことでした。

研修医は通常、上の先生についていわゆる「介助」を行うわけですが、介助係の役割は執刀医がやりやすいように周囲に気を配って血を拭いたり皮膚を引っ張ったりすることですから、先輩の手術する手元ををはじめから終わりまでずっと見やすい位置で見ているなんてことは許されません。
何をしているのかよく見ようとして首を伸ばせば、術者の手元を照らすライトをさえぎったりして邪魔になるので怒られてしまうのが普通です。

ところが、私の役目は手術のやり方を説明するためのビデオを撮影する係ですから、直接手を出すことはできませんが、手術のやり方が最もよく見える位置に陣取って、逆に「先生、手が邪魔で見えません」などといって術者の手をどけてもらうことだってできるのです。
40例ほどだったでしょうか、繰り返し繰り返し、先天性・後天性を含めてさまざまな患者さんの手術をはじめから終わりまでじっくりと見ることができました。

また後日、これらを編集して「手術のキモ」の部分を繋ぎ合わせる際にも、自分で撮影したビデオを繰り返し飽きるほどみることになりました。これは未熟な研修医であった私にとって本当に貴重な財産となりました。

|

眼瞼下垂症手術と私(1)

眼瞼下垂の手術を初めて見たのは、京大研修医1年目の夏ごろだったと思います。
先天性眼瞼下垂の患者さんで、術者は現在神戸でさわだクリニックを開業されている、当時形成外科講師の澤田先生、術式はオーソドックスな挙筋短縮前転法だったと記憶しています。
(もう20年も前のことになりますが、実は患者さんのお名前も覚えていたりします。)
当時京大では眼瞼下垂の手術はあまり数多く行われておらず、結局大学病院では2~3例の手術に入らせてもらっただけで、自分で手を出すチャンスはまったくありませんでしたし、今のように瞼の手術を数多く行って、瞼専門外来を開くようになるとは想像もしていませんでした。いわば、形成外科医の教養の一つとして「一応知っている」というだけのことでした。(もちろん、研修医レベルとしてはそれでいいわけですが。)

眼瞼下垂の手術を実際にやらせてもらい、また文献などもたくさん読んで、広い形成外科の分野の中でも特に眼瞼下垂に親しみを持つようになったのは、研修医2年目、兵庫県立尼崎病院に勤務していたころでした。

当時の形成外科部長は、現在長野県の新生病院にいらっしゃる寺島先生(一時期、2ちゃんねるで瞼の美容手術の修正がお上手と評判になり、患者さんが集中して大変お困りになったようですが、本当は各種の形成外科手術に大変な技量をお持ちの先生です)、もう一人、野瀬京子先生(現在京都市の、ご実家でもある中嶋外科整形外科にお勤め)が医員でおられて、その下の3番目として、いろいろな手術を実際にやらせていただきました。

眼瞼下垂については、その1年で年間60名ほどの手術を経験しました。これは今ほど眼瞼下垂という病名がポピュラーになっていなかった当時としてはかなり多いほうではなかったかと思います。

|

下まぶたの脂肪を抜く(3)ハムラ法

最近、一部の患者さんの間で、「ハムラ法」という手術を受けることがはやっているようです。
「患者さんの間で」と書いたのは、医師が「この患者さんにはこの方法が向く」と判断するのではなく、患者さん自身が正確な知識を持たずに「ハムラ法がいいらしい」という程度のあやふやな情報でこの手術を希望することが増えている、という意味です。

この方法は、適応を厳密にすればかなりの効果をあげることができると思うのですが、だれでもいい結果が出るというわけではありません。前にも書きましたが、正常な構造を「破壊する」タイプの手術は、見た目のために何かを犠牲にすることになります。
よくなる点だけに目を奪われず、手術の結果「何が失われるのか」をよく見極めてください。そのためにはきちんと診察を受けることが大切だと思います。

変化には「よくなる点」と「悪くなる点」がかならずあり、どちらか一方だけを見ていると失敗します。凹みをなくすということは、ふくらみを作るということだということを認識してください。そしてできるならば、より自然な構造に近づける手術を選択してください。
それが「あっという結果」を招かないコツだと思っています。

|

いろいろあって・・・

なかなか新しい文章を付け加えることができませんでした。

毎日見てくださっている方もいらっしゃるようなので、心苦しい限りですが、末永く見守っていただけたらと思います。

もうすこししたら、いくつか文章をアップできると思いますので、しばらくお待ち下さい。

|

アファームとシナジー(1)

肌の若返り、引き締め、肌質の改善などの目的にレーザーを使い始めたのは、大城先生が最初ではないかと思います。1997年当時、ロングパルスアレキサンドライトレーザーを用いた「コラーゲンを増やす治療」というアイディアは画期的なものでした。

その後、その考え方を借用しながらも、レーザーを使わないでIPL(インテンシブ・パルスライト)を用いる低価格の「フォトフェイシャル」が上陸し、全国的に流行しました。しかし、「フォトフェイシャル」という名前は有名になったものの、装置そのものの限界とあまり原理を理解していない医者の濫用、エステの参入とダンピングなどがあって、結局はフォトフェイシャルは簡便で安いけれどあまり効果のないエステ治療のように思われるにいたりました。

一方レーザーの分野では、メラニン色素が多くトラブルになりやすい有色人種向けに、より波長の長い専用機が次々と開発され、「コラーゲンを増やすレーザー」という考えが徐々に一般的になっていきました。

コラーゲンを増やすには、まずコラーゲンを作る製造工場である「線維芽細胞」を効果的に刺激しなければなりません。当初は、穏やかな刺激を加えて活性化させる、という大城先生の考え方はあまり受け入れられず、今あるコラーゲンを「破壊する」ことによって新たなコラーゲンが作られる、という考え方が主流となったため、熱作用が強く痛くて腫れる(その割にはしみも取れないし効果が出るのに時間がかかる)機械が多く、あまりメジャーな治療にはなりませんでした。

ブレークスルーとなったのは、光にRFを併用することによって真皮の深いところに効果を出す「サーマクール」と、従来からあった皮膚を削るレーザーに「フラクショナル」という技術を取り入れることでダメージを減らした「フラクセル」だと思います。ただし、どちらの機械も「痛い」という欠点は「効果を出すためには仕方がない」ものとして残されました。

そこでこれらの後継として、痛みとダウンタイムは少ないが効果はそれなりにある、という機械が続々と登場してきます。その一つが、「フラクショナル」な考え方を受け継いだアファームというレーザーです。

|

埋没法(2)

アイプチなどを利用して重瞼を作っている方が、アイプチと同じラインで埋没してほしい、とおいでになることがあります。そこで患者さんの言うままに、現在折れ目がついている位置に糸を通すと、たいていの場合とんでもなく広い重瞼になってしまい、患者さんも医者もびっくりする結果を招きます。

他院でうけた手術の修正を希望して来院する患者さんの中には、このような方もかなり見受けられます。

瞼の皮膚と瞼板との間にはぬるぬるとした結合織があるため、皮膚は重力によって下に滑り落ちています。一方、埋没法では多少とも糸で組織を吊り上げる形になるため、糸をかける位置と締め具合を調整しないと、アイプチをしていたときと同じ重瞼幅にならないのですが、経験の浅い医師はそのあたりの呼吸がつかめないようです。

この他にも、糸を通すときの針の角度や、ループを作るときの縫い幅、結び目をどのように作るかなど、なかなか言葉には表せない微妙な勘所が、埋没法にはたくさんあります。

腫れない、とか痛くないとか、それから値段が安いとか、もちろんそうしたことも患者さんにとっては大切なことなのかもしれませんが、もし心に余裕があれば、そのお医者さんが思い通りの形を作るためにどのような工夫をしているのか、言葉の端々にあらわれる「コツ」のようなものを感じとるべく、診察時間を有効活用してみてはいかがでしょうか。

|

大江橋クリニックという名前について

知らない方(たいていは医療関係の業者など)から、「大江橋先生はいらっしゃいますか?」などと電話がかかってくることがあります。そうした場合は「そういうものはおりませんが」といって電話を切ることにしています。

大江橋はクリニックの名前であって、院長は井上、副院長は小川です。
なぜ大江橋? それは大江橋のたもとにあるからです。
大阪のビジネスを代表する中之島を、キタからミナミに御堂筋が走っています。中之島にかかる橋のうち、南側が淀屋橋、そして北側の橋が大江橋です。京阪電鉄や地下鉄の駅がある関係で、今のところ淀屋橋の方が有名ですが、来年には大江橋にも新駅が誕生する予定です。
そうなれば、もう少しうちのクリニックも有名になるかな?

開業する場所を決めるのは大変でした。仕事帰りに気楽に受診していただけるように、交通の便が良く夜も安全な場所で、入口が見つけやすく入りやすいこと。なかなか条件に合う場所が見つからず、神戸から京都に至るまで関西一円を約半年かけて探し歩きました。

今の建物は大阪市役所・日銀・高等裁判所・アメリカ領事館などにほど近く、夜間も人通りが多いばかりでなく、近くに交番もあって若い女性が一人でお帰りになるときも安全です。大阪で人気のスポット・水晶橋もライトアップされて大江橋からよく見え、中之島の夜景もきれいです。毎晩診療を終えて帰るとき、橋の上からクリニックの看板を眺めては「今日も頑張ったなあ」と幸せな気持になります。

本当は、クリニックの名前に地名を付けるのは好ましくないのだそうです。それは「その地を代表する医療機関のように誤解を与えるから」なのだそうですが...。 でもゆくゆくは、大江橋といえば大江橋クリニックといわれるようになりたい。そう思って日夜診療に励んでいます。

|

埋没法(1)

重瞼手術の中でも、埋没法は難しい部類に入る手術だと思っています。

まぶたの構造は本当に一人ひとり様々で、皮膚の厚さも眼瞼挙筋腱膜の付着位置もまぶたごとに(ということは同じ人の左右でも)かなりの変化があります。初めて手術する患者さんのまぶたを、細い糸1、2本で思い通りの形に変化させる(それも術後の腫れや数か月後の完成形を予測して)のは、何度やっても難しいものだと思ってしまいます。

それでも、研修医の頃から眼瞼下垂の手術やその他のまぶたの手術を何百例と行なってきた経験があるから、実際に切ってみなくても内部の筋肉の走行や血管の様子などをある程度予測できるわけで、その経験なしにはとてもまともな手術はできないだろうなと思います。

重瞼手術を学ぶなら、まず最初に眼瞼下垂手術が一人でできるようになり、次に切開法に熟練し、埋没法はその後に学ぶべき術式だろうと思います。
ところが、最近では美容外科に就職した医師が最初にやらされるのが埋没法だなどという話も聞きます。そういうところでは、「術後の再診不要」などとホームページに書いてあったりします。
自分のやった手術の結果を、1週間、1ヶ月、3ヶ月、半年、1年と見ていかなければ、その医師の技術が向上するはずがありません。

埋没法は経験の浅い医師の練習台ではなく、もっと豊富な経験を積んだ医師が慎重に行うべき手術だと思います。糸だけでできるから、切らずに済むから簡単なわけではありません(これは他の手術も同じです)。見えない部分を想像し、手探りできちんと内部の処理を行なうためにはそれなりの経験が必要だということを、患者さんも理解していただきたいと思います。

埋没法をあまり簡単に考えないで下さい。

|

美容外科における「カウンセリング」なるもの

始めにお断りしておくと、大江橋クリニックでは美容手術の「カウンセリング」は行なっていません。「カウンセラー」という職種のスタッフもいません。

当院で行なっているのは「診察」です。診察は、医師と歯科医師にのみ許された医療行為で、患者さんのお話を聞き(問診)、症状を見(視診)、場合によって触ったり(触診)叩いたり(打診)することをいいます。
診察によって、医師は患者さんの病状を「診断」し、治療へとつなげることができるのです。

美容外科も、厚生労働省が診療科として認めており、社会保険事務局に申請した上でクリニックとして正式に標榜して(看板に書いて)いる科の一つですから、美容外科の診察といっても何も特別な事を行なっているわけではありません。ただ、実際に行なう治療の多くが保険診療になじまないというだけです。

はじめての方から「カウンセリングの予約を取りたい」というお電話をよくいただきますが、そうした場合、当クリニックでは「予約は必要ありませんので、診察時間にお出で下さい」と申し上げることになっています。美容系クリニックに良くある「完全予約制無料カウンセリング」という方式をとっていませんので、中にはなかなか理解していただけない方もいますが、今のところ原則的にその方式を変える予定はありません。

私どものこだわりかもしれないのですが、「無資格者のセールストーク」に過ぎなかったり、実際に執刀する医者ではないバイト医師の単なる「術式説明」だったり、そうした色々あやしげな物を含んでいる「カウンセリング」ではなく、医師のみが行うことのできる「診察」という用語を使う方がしっくりするものですから、今後とも大江橋クリニックでは「カウンセリング」と診察を明確に使い分けていきたいと考えています。

* もちろん、心理学・精神医学の用語である、発達や対人関係の問題を解決するための「心理カウンセリング」は、その他の心理療法とともに、適応のある人に対して院長が行なっています。この場合、条件が合致すれば健康保険の「心身医学療法」が適用されます。

|

美容外科の症例写真に意味はあるのか

美容手術の相談にこられる患者さんの多くが、「症例写真を見せてください」といいます。いわゆる形成外科的な(傷跡を治したりできものを取ったりという)手術の時にはあまりみられないことです。

多くの美容外科クリニックが「術前・術後写真」で客寄せをしているために、徐々にそうした風習が全国的に広まってしまったのでしょうが、果たして他人の写真を見ることがそんなに大切なことでしょうか。

患者さんにとっては、今目の前にいる医者が「へたくそな医者でない」という確証が欲しいのかもしれませんが、「症例写真」がその医者の技術を証明してくれるものでしょうか。

形成外科的な症例写真といえば、新しい技法を開発したとか、非常に珍しい病気であったとかいう場合に、学会で発表するためのもの、というのが一般的であるように思います。それは医学の発展のために大切なもので、見せる相手も同業者(それもその分野の専門家を含む非常に偉い先生方が混じっている)ですから、いい加減なものは出せないし、それなりに意味があると思います。

では、美容外科のホームページに載っている「ビフォー・アフター」の写真はどうでしょう。

あれは、レストランのメニューに載っている写真やショーケースのロウ細工の見本と同じだと思います。それなりに手術のイメージはつかめるけれど、実際に出てくるものはずいぶんお粗末だったりすることは、皆さんも何度も経験済みでしょう。

その写真にしても、素人目にも怪しい写真も多いことは皆さんご存知のとおり。きれいな仕上がりだとしても、それがたまたまうまくいったその先生の最高傑作かもしれません。

つまり、(症例写真が何の細工もない真実の写真だと仮定して)あの写真が示すものは、「そうした手術を行っている」「中にはうまくいっている人もいる」ということだけです。

手術は生身の人間に対して行うものなので、患者さんによって条件が違い、一人ひとり別々の難しさを内包しています。誰か別の人がうまくいったからといって、自分の場合にうまくいくという保障は何もありません。そうした場面で大切なことは、「誰か別の人の写真を見ること」でしょうか。

もしその施設で手術した全員の術後写真を見ることができれば、的確な判断も可能でしょうが、実際にはそんなことは不可能です。

そうではなくて、手術する医者と向き合って、自分の悩み・希望を的確に伝えること、それから、その医者の腕前や手術に取り組む姿勢をきちんと評価すること、信頼できると思ったらその医者に任せること、そうしたことが大切なのではないでしょうか。

では、医者の腕前を評価するときに大切なことは何でしょうか。わたしは、

1) その医者がまっとうな経験をつんできているか

2) 直感的に信頼できそうか

の2つだと思っています。特に2番目、直感は信じるべきだと思います。なにかしらの怪しさ、胡散臭さを感じたら、そこでは手術しない。それが「症例写真」にだまされないコツではないのかなあ、と考えています。

|

美容外科と形成外科は別物か

形成外科の診療をしていると、患者さんの中に冗談めかして「ついでにふたえにしてもらおうかな」などという方がいます。ところが、「しましょうか?」と答えると、「え?美容手術もここでできるんですか」と驚かれたり...

あのう、うちはきちんと「美容外科」も標榜しているんですが。(看板にもちゃんと書いてあります)

どうやら、形成外科、皮膚科の片手間にホクロ取りやプチ整形程度の「美容外科」もできないことはない、くらいに見られているらしいのです。とんでもない。自慢ではありませんが、そこらのチェーン店美容外科よりはずっと質の高い美容外科治療を行っているんですよ。確かに、いわゆる「美容クリニック」らしくはないかもしれませんが。

患者さんの多くは、美容外科というと女性雑誌にはでな広告を載せて、「カウンセリング無料」で、「脱毛キャンペーン!!」などやっていて、保険が使えなくて、...というイメージを持っているようで、大江橋クリニックのような普通の?クリニックでふたえの手術なんて、ほんとうにできるの?センスはどうなの?と思ってしまうようです。

実は、美容外科は形成外科の重要な一部門で、形成外科を学んだ人ならたいてい重瞼・隆鼻・豊胸・フェイスリフト・脂肪吸引・脱毛・ケミカルピーリングなど一通りのことはできるはずです。(日本形成外科学会のホームページ参照)

たとえばふたえの手術一つとっても、麻酔科や内科など畑違いの分野からいきなり美容外科クリニックに就職して、埋没法のやり方だけを習って手術する医者と、形成外科で瞼の外傷・腫瘍・義眼・眼瞼下垂などの経験をつんで、瞼の構造(筋肉や血管、神経の走行など)を実際に目で見て熟知している医者が手術するのと、どっちが安全かは明らかでしょう。

そうはいっても、得意・不得意というのは確かにあります。形成外科の医者でもあまり美容を得意としていない人もいます。土木工事のような大掛かりな手術を専門にしていたり、骨をいじる専門だったり。

わたしはそもそものはじめから形成外科の中でも美容皮膚科的・美容外科的な分野を歩んできたのですが、自分から進んでそうしたというよりは、そうした分野で日本をリードしてきたといってもいいすばらしい先生方にたまたま多くめぐり合い、さまざまな技術を教えていただくなど、運命に導かれてここまで来たような気がします。

現在の施設は入院設備がない関係で、全身麻酔を必要とするような大掛かりな手術は行えませんが、結構いろんなことをやっていますので、一度ホームページを覗いてみてください。

|

下まぶたの脂肪を抜く(2)

脂肪を切除すればふくらみが改善すると考えている医師は、「脂肪を切除しても特に悪影響はない」「他の手術に比べてダウンタイムが少ない」「(まぶたの裏側から切除すれば)表面に傷がつかない」と利点を強調します。

確かに、そうした手術はあまり腫れないし、表面的には傷はつきません。手技的にも簡単で、出血にさえ気をつければ短時間ででき、きちんと縫わなくてよいので腕のよしあしもあまり関係ありません。する側にとって簡単で、される側(患者さん)にとっても負担が少なく、わかりやすい手術です。(膨らんだところから脂肪を抜いたら平らになった、ときわめて単純な理屈です)

すぐ効果が出て1年ぐらいもつ、という意味では、よい方法なのかもしれません。

でも、患者さんの人生は長いのです。20代で手術を受けたとすれば、あと60年ぐらいはその顔で生活することになります。そうした長期的な視野が、この方法には欠けているように思います。

「いや、自分にとっては今が大切で、5年後10年後のことはそのときに考えればいい。将来不都合が出たら、その時点で脂肪注入でもたるみ取り手術でもすればいい」

なんだか、きちんとした修理をせずに応急処置を重ねて使い続ける機械みたいです。「治療」という観点から見れば、不都合が出たら正常に近づけるのが正しいやり方のように思うのですが、美容手術は内部構造を破壊してもそのときの見た目だけ取り繕えばよいものなのかな?

形成外科を長いことやっていると、美容外科という世界はずいぶん刹那的で、その場限りで、その人の将来に責任を持たなくていい気楽な世界に見えてしまいます。

|

下まぶたの脂肪を抜く(1)

下まぶたがたるんできたので脂肪を抜いてほしいという患者さんが増えてきました。
まぶたの内側を切って、脂肪をとれるだけ取るという、いささか乱暴な手術を行っているクリニックがあるようなのですが、「うちでは基本的にそのような手術は行っていないし、お勧めしない」というと、「大江橋クリニックではできないんですか?」と言われてしまいます。
なんでもそのクリニックでは「高度な技術が必要で、ここでしかできない」というような宣伝をしているようなのです。

わたしは特別な場合を除き、下眼瞼の眼窩脂肪は切除すべきではないと思っています。(必要があれば行っていますので、できないわけではありません。)脂肪というと何でも悪玉にされがちですが、眼窩脂肪は目の機能にとって大切な役割を果たしていますし、切除するとかえって小じわが目立ったり落ちくぼんだ感じになって老け込んだ印象を与え、美容的にも好ましくないと考えるからです。

では、そのかわりにどうするのか。
根本的な解決を望むなら、皮膚切開を伴う下眼瞼の再構成(いわゆるたるみ取り手術)をするべきですし、どうしてもダウンタイムが取れず手術ができないというのであれば、間に合わせの手術でなく、手術以外の方法を組み合わせて穏やかな改善を図るべきだと思います。
下まぶたのたるみやふくらみは、脂肪が多いから起こっているわけではなく、瞼を支える筋肉と皮膚の衰えが原因になっている場合がほとんどです。それをそのままにして、ただでさえ年齢とともに減少してくる眼窩脂肪を「とれるだけ取って」しまったのでは、老化を加速しているように思えてなりません。

|

保険診療についてもっと理解してください(1)

「ホクロを取りたいんだけど、保険が利きますか?」「ビタミンCは保険で出してもらえないんですか?」

診療をしていると、よく出くわす質問です。いずれに対しても、「美容目的の場合は、保険はつかえません」とお答えすることになりますが、ではなぜ、美容に保険は使えないのでしょうか。

保険制度は複雑で、一般の人々に仕組みを理解していただくのは本当に難しいのです(厚生労働省の陰謀かと思えるほどです)が、簡単に言ってしまうと、日本の保険制度は「すべての人に等しく保障された、最低限の医療」なのです。

この「最低限の」というところが重要で、その限度枠は国が実に事細かく定めています。保険でやってよいことは、「点数表」という料金表にすべて書いてあり、逆に言えばそこに書いてないことに対しては保険はいっさい使えないのです。その内容は、国保(国民健康保険)でも社会保険でもまったく同じです。

「点数表」は生命保険でいえば保険会社とご本人との間に交わされる「契約書」に細かい字でびっしり書かれた「契約約款」のようなもので、普段読むことはないけれども、実際に必要な場合には「ご本人が知っておくべきこと」とされています。でも、ほとんどの方はそんなもの見たこともないはずです。(読んでも法律の条文みたいな書き方なので、すぐには理解できないかもしれません。)

そこに書いてあることは、繰り返しになりますが「最低限の医療」、ですから「贅沢を言ってはいけない」というのが基本的な考え方になります。いわば医療の世界の「生活保護」に当たります。

人並みに生きていける程度は保障するけれども、それ以上はご自分でどうぞ、それが保険制度の制限であることをどうぞご理解下さい。

|

患者さんと信頼関係を築きたい

医師と患者さんとの関係(Doctor-Patient Relationship)を良好に築くことが、最近はずいぶん難しくなってきました。

おそらくはマスコミの医者たたきの影響が一番大きいと思うのですが、初対面の「初診」時からいきなりけんか腰で、何か怪しいところはないかと言葉尻を捕らえたりあら捜しをする患者さんが、最近は増えてきたように思います。

患者さんに満足していただけるように、できる限りのお手伝いをしたいと思っていても、初対面で目の前に録音機を置かれたり、開口一番「カルテのコピーはもらえますか」と切り出されたりしたら、やはり緊張し、身構えてしまいます。

医師と患者さんとは同じ悩みを共有するパートナーであり、問題を解決するために共に戦う戦友であるべきだと思っています。患者さんにとっての敵は「病気」であり「悩み」であるはずで、医者を敵に回してほしくはないなあ。

医者も人間ですから、時には間違うこともあればミスもする。でも、あらかじめ「何かミスをするはずだ」という目でじろじろ見られているときよりは、パートナーとして信頼を寄せていただいたときのほうがはるかにのびのびといい仕事をするだろうし、萎縮したり緊張したりしない分、してはいけないミスも減るだろうと思います。

医師にとって一番うれしいのは、いい結果を出して患者さんに喜んでもらえたときです。いい結果を、患者さんと共に喜びたい、...ほとんどの医師は、そう思って仕事をしているはずです。

いきなり録音機を突きつけてくる患者さんは、そうした機会を自ら逸しているのではないでしょうか。少なくとも私は、そうした患者さんに対して心を開いて誠意を尽くそうというよりは、なるべく当たり障りのないお話をして、満足してもらえるかどうか分からない難しい手術や危険の伴う治療はせずに、早々にお引取り願いたいなあ、と思ってしまいます。

「たいしておかしくないですよ」「手術する必要ないですよ」などといいながら、(どこか他所のお医者さんに相談に行ってくれないかなあ)と思ったりもするのです。

たぶん、最初にお会いした瞬間が、治療結果にもかなりの影響を及ぼしていると思います。一期一会、という言葉がありますが、せっかくのチャンスを最大限に生かすためにも、いい出会いをして、お互いにとってよい関係を築きたいと思っています。

|

ホームページがうまく見えないという方へ

ホームページに行ったけど真っ白で何も表示されないというご指摘を受けました。

今度のホームページは、ShiftJISではなくユニコードのutf-8で書き直しています。この方がさまざまな文字を自由に使えるからよいと考えたのですが...

見えないという方は、表示メニューからエンコードを自動判別にするか、ユニコード(utf-8)を指定してみてください。なお、ソースファイルには<META>タグでエンコードを指定してありますので、ちゃんとしたブラウザであれば自動的に対応してくれるはずです。

|

ブログを立ち上げてみました

開業以来ぼちぼちと自作してきたクリニックのホームページですが、9月1日をもって全面リニューアルしてみました。

そのついでに、ホームページには書けない個人的な思いや、医療について考えていることなども公開できればと思い、ブログを立ち上げました。

毎日日記をきちんと書き続けるような性格ではないので、折に触れての書き込みになると思いますが、時々除いてみてください。

|