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2008年4月

眼瞼下垂症手術と私(9) 再手術

同じように見える手術でも、人により、まぶたの状態は実にさまざまです。特に再手術の場合は、(1回目の手術を他の術者が行っていた場合はなおさら)内部の瘢痕がどうなっているか、糸がどのあたりに固定されているか、など分からないことが多く難しいものです。

私は、原則的に、他の術者が行った手術の再手術はしないほうがよいと思いはじめました。
かつて症例も徐々に増えて、眼瞼下垂の手術が得意になってきた、と自信がついてきたころは、他の医者に失敗された、と悲壮な顔で診察に来る患者さんをみると、気の毒でもあり、自分ならこんな失敗はしないという思い上がりもあり、何とか救ってあげたいと再手術を気軽に引き受けていました。

しかし最近では、うまくいかないのにはうまくいかない理由があるのだと思うようになって来ました。
そもそも、眼瞼下垂の手術というのは、傷痕直しなどに比べると定型的で術式も何種類かに分類はされるものの、ある程度標準化されています。
少なくともこの手術を行っているとわざわざ広告するほどの医療機関であれば、同種の手術を数多く繰り返し行っているはずで、通常の技量を持つ医者ならとんでもないミスをするはずがないように思えます。

そうであれば、通常考えられないような結果に終わるのはなぜでしょうか。患者さんの体質や生活習慣や行動パターンの中に、医師があまり想像しないような、あらかじめ想定していないような原因が潜んでいるのではないでしょうか。

そうした原因は、初対面の短い診察時間の中では気づくことができず、術後の経過の中で初めて明らかになってくるのではないでしょうか。
それを単純に、最初の術者が下手であった、と思い込むのはとても危険なことです。むしろ、最初に手術を行った医師が、術後に何が起こったのかを考えて、思い当たる原因をできる限り排除した上で再度挑戦するほうがよい結果を生むのではないでしょうか。

そう考えて、再手術の相談に来られた患者さんには、できるだけ手を下した医師の下に帰るようにお話しすることにしています。お引き受けする場合にも、前のお医者さんから、どのような手術を行いどのような結果になったのかが分かるような紹介状をもらってくるようにお願いしています。

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眼瞼下垂症手術と私(8)

手術の数が増えてくると、必ずしも教科書的な手術では対応できない患者さんもそれなりに増えてきます。特に、過去に同様の手術を受けてうまくいかなかった人の再手術は難しいものです。

私自身は、城北病院・専売病院(現・東山武田病院)でたくさん手術を行うようになって、術式が大きく変わりました。
一つは、前にも書きましたが、寺島先生の後を引き継ぐことになって、これはいい加減なことはできないぞと、もう一度各種の手術法の文献を集めておさらいしたからでもあります。もう一つは、手術を重ねるうちに体得したコツのようなもの、他の先生方が執刀してうまくいっていない症例などを通して、「なぜ今までの術式ではうまくいかないことがあるのか」がだんだんつかめてきたからです。

現在は、私の手術はほぼ全例、帝京大学の久保田先生の術式に似た眼瞼挙筋短縮前転法で行っています。(但しいくつかの点で考え方の違いもあり、正確には今までいろいろな先生に教えていただいた方法のミックスともいえる術式になっています。)

結膜には意図的には穴を開けません(したがって、角膜保護板や挙筋クランプなどの特殊器具は一切使いません。)
横走靭帯は(再手術などですでに切断されている場合を除き)切断しません。ミュラー筋は切除しません(切断はします。)
先天性の場合を除き、結膜の剥離は約1センチ幅に留めています。
眼窩隔膜は眼瞼挙筋腱膜との折り返し点付近で切開しますが、脂肪の切除は原則として行いません。
筋膜断端と瞼板とは通常3箇所固定します。
皮膚切除はほぼ全例行います。
眼輪筋は切除する皮膚幅の半分程度切除します。
筋肉の短縮前転量は、後天性で挙筋の機能障害がない場合は8ミリと決めています。(6ミリ短縮2ミリ前転)

最近は術中・術後の点滴、テーピング、内服薬などの工夫によって、術後の腫れも極めて軽微にできるようになりました。テープは3日間貼っていただきますが、洗顔は翌日からしてもらっています。
抜糸は1週間後ですが、テープを外してしまうと何も貼らずに外出されてもさして奇異な感じはしない程度です。

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眼瞼下垂症手術と私(7)

2005年には、KBS京都放送のラジオ番組でまぶた外来についてお話しする機会も与えられ、その年の年末に城北病院を退職するまで、城北病院のまぶた外来は続きました。
その間、当時の同僚であった岩城先生(長岡京のいわきクリニック)や近藤先生(神戸市北区の甲北病院)にも手術についてもらい、岩城先生が独立開業されてからは、専売病院の方の手術は近藤先生に代わっていただいて、自分の手術は城北病院で行うスタイルになりました。

当時、京都市内で眼瞼下垂の手術を数多く行っていたのは、これも城北病院から独立開業された鈴木晴恵先生(京都・鈴木形成外科)、京都府立医大眼科形成と城北病院の3ヶ所ぐらいではなかったかと思います。

鈴木先生は城北時代はあまり眼瞼下垂の手術は行っておられなかったようですが、信州大学の松尾先生に習われた術式をマスターされたとのことで、独立されてからは松尾式の眼瞼下垂手術で有名になり、今も多くの患者さんが訪れているようです。
私はちょうど先生がお辞めになるのと入れ替わりに城北病院に勤務することになったので、実際に鈴木先生がどのような手術をされるのか拝見したことはないのですが、各クリニックを相談に回っている患者さんや、別件で私の診察を受けられた患者さんなどを見る限り、丁寧な手術をされているようにお見受けしております。

最近では、このほかにも眼瞼下垂の手術を手がけられるドクターが非常に増えてきました。後天性のいわゆる老人性やコンタクトレンズ性といわれる患者さんを含めると、患者さんの数は非常に多いので(松尾先生の説によれば日本人の7割は眼瞼下垂とか)、多くのドクターが競い合うことで技術が高まっていけばいいなあと思っています。

患者さんのほうも、ネット情報に振り回されて一人の医者に集中するのではなく、お近くのお医者さんに行ってみればいいのに、と思います。どの先生も真剣に勉強してそれぞれに技術を磨いていらっしゃると思います。

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眼瞼下垂症手術と私(6)

再び眼瞼下垂の手術をたくさんするようになったのは、城北病院に勤務してしばらく経ってからでした。当時、京都桂病院の形成外科部長をされていた前述の寺島先生が退職されることになりました。
寺島先生はそのころ同時に、週1回城北病院の月曜夜の外来も担当され、また月に1~2回、京都専売病院(現・東山武田病院)眼科で瞼の手術なども担当されていましたが、それも同時にお辞めになりました。

そこで、専売病院の眼科の先生から、その後任として私に瞼の手術の依頼があったのです。大変優れた術者でもあり、私の先輩で手術も基礎から教えていただいた先生の後任ということで、かなり迷ったのですが、寺島先生の『あなたは手術はできるんだから、後は経験を積み重ねていくだけ』との言葉に後押しされて、お引き受けすることにしました。

専売病院では、眼科の先生があらかじめセレクトしておいた患者さんをまとめて月に1~2回手術するという形をとっていました。
最初の患者さんは、半年前に片方の瞼を新井先生(現・城北病院)が手術され、大変きれいに上がったと喜んでおられた男性でした。それで今回、その反対側を手術することになったのですが、私としてはそれは結構なプレッシャーでした。幸い私が担当した側もうまく行き、その後担当した多くの患者さんの手術も眼科の先生に「100%うまくいっていますね!」といっていただける成績だったので、次第に私も『眼瞼下垂の手術は得意分野」と言えるだけの自信を付けていくことができました。

そのころから、京都市内の眼科の先生方から眼瞼下垂の患者さんを紹介いただけるようになり、また口コミで遠方から診察にこられる患者さんも増えてきました。
城北病院では私の外来はニキビの患者さんが大変多かったのですが、その間に瞼の診察が入ると、瞼の悩みの患者さんの診察には大変時間がかかるため、診察の待ち時間が非常に延びて、夜8時に受付終了しても終わるのは午後10時過ぎということが多くなりました。

そこで、比較的患者さんの少ない火曜日に「まぶた外来」を開設してもらい、専売病院とあわせて毎月10名ほどの患者さんをコンスタントに手術できる体制になりました。

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眼瞼下垂症手術と私(5)

2年間の研修を終えて、私は現在も京都で活躍されている冨士森先生の下で勉強することになりました。当時は冨士森先生も現在にもましてお元気で、非常に数多くの手術を精力的に行っていました。2つの手術台を平行して使って、全身麻酔の手術を1日8例とか、朝から晩まで局所麻酔の手術を20例とかいう状態でしたから、短期間でさまざまな手術を学ぶことができました。

典型的な眼瞼下垂の手術は多くはありませんでしたが、その反面、義眼で変形した瞼の再建とか、やけどやあざで切り取った瞼を植皮で治すといったさまざまな技法を学ぶことができました。

大腿筋膜を使った吊り上げ術をはじめて教えていただいたのも、冨士森形成時代です。手術に使う筋膜をどのように取り出したらよいか分からず、太ももの辺りに切開線のマーキングをしたら、膝の上に開けた小さな穴から取り出すのだと怒られたり、筋膜の端を眉の上に出したまま手術を終えて、1週間後に『増し締め』をするとか、教科書に書いてないさまざまなことを教えていただいたことが、つい昨日のことのように思い出されます。

眼瞼下垂とは直接の関係はありませんが、顔面神経麻痺で瞼が下がった患者さんには眉の吊り上げをしたり、凹んだ瞼に脂肪注入をしたりと瞼の手術に関してはここでの経験が大変役に立っています。

私はその後、千石荘病院・岸和田市民病院で一人で手術を担当するようになりましたが、留学時代を含め、冨士森以降の数年間は眼瞼下垂の患者さんは少なく、先天性の患者さんが年に数人来る程度で、技術的進歩も大きいものではありませんでした。

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眼瞼下垂症手術と私(4)

当時寺島先生が行っていたのはいわゆる教科書的な手術でしたが、これは「教育ビデオを撮影する」という目的からも当然であったと思います。

このような術式では、まず瞼の表面をふたえの線で切開し、年配の方の場合は余分な皮膚を数ミリ幅で切除します。その後、瞼板前組織と呼ばれるぬるぬるした、脂肪と筋肉と結合織が混ざったような組織を切除し、瞼板(眼科の検診のときにお医者さんがくるっと裏返すみかんの袋のような形をした板状のもの)にくっついている眼瞼挙筋腱膜を探し出して、腱膜を奥のほうまで剥離しながらたどります。

その後、瞼板のすぐ上に2箇所穴を開けて、挙筋クランプといわれる器具で腱膜と結膜を一緒にはさみ、挟んだ腱膜と瞼板を切り離します。そして結膜と筋膜を分離し、クランプではさんだ幅で筋膜を上のほうまでおよそ2センチ幅弱の短冊状に剥離していくことになります。

筋膜は瞼板の近くでは左右に広がって、イチョウの葉のように、ガチョウの脚のようになっているのですが、上記のような操作を行うと、筋膜の両端を切り落としてしまうことになります。(内角と外角の切り離し、という手術法です。)これをすると、筋膜は引き出しやすくなり、引っ張れば何センチもずるずると出てくるのですが、その反面、固定性が弱まるため瞼板に再び縫いとめるときの調節が難しくなります。

手術中に何度も患者さんに眼を開けてもらって、内側が上がりすぎた、おや今度は外側が、と微調節を繰り返すのがなかなか大変でした。また、クランプで挟んだ部分は結膜と筋膜がくっついたままで、しかもしっかりと金属ではさまれて押しつぶされて(ザメツして)いるので、切り取って捨ててしまわなければなりません。

そうした理由で、私は現在ではこの術式を行うことはないのですが、基本的な手術の修練と瞼の構造の理解には大変勉強になりました。
この方式で私が手術をした患者さんは、おそらく20数人ぐらいであったと思います。

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眼瞼下垂症手術と私(3)

こうした経験をした上で、ようやく上の先生について実際の手術をさせてもらうわけですが、みるとやるとは大違い、はじめの2~3人の手術に関しては、当時の患者さんにお会いしたらお詫びしなければならないような腕前であったことは白状しなければなりません。

両眼の手術を行うとき、はじめに片方を上の先生が行い、私は反対側を同じように後追いしていくのですが、先輩が何気なく周囲の組織と分けて引っ張り出す筋肉が、私の側はなかなか見つけられなくて、ピンセットで探ってもはさみで切っても出血するばかりでどんどん視界が悪くなっていく、そんな胃の痛くなるような経験をしてしまったこともあります。

それでも、何度も繰り返して手術を見た経験は非常に有用で、結膜と筋肉のほんのわずかな色の差、光の差を見分けてその間をはさみで剥離していくと見事に瞼の筋肉がずるずると出てくるという感覚は感動的ですらあり、早くこの手術がうまくなりたいなあ、と思ったものでした。

このころは「腱膜性眼瞼下垂」という言葉はポピュラーではなく、そうしたものは押しなべて「老人性眼瞼下垂」と呼んでいました。こうした、後天性・老人性といわれる眼瞼下垂に対しては、挙筋腱膜のタッキングが簡単でよい方法であると野瀬先生に教わり、実際に、あまりきちんとした剥離をせずに3針ほど糸で留めるだけでパッチリと眼が開くのに感動したのもよく覚えています。

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眼瞼下垂症手術と私(2)

当時、眼科での白内障の手術後に発生する後天的な眼瞼下垂が問題となっていて、眼科の患者さんが非常に多かった県立尼崎病院ではそうした患者さんが次々と形成外科に紹介されてきていました。
私たちは、こうした単純に老人性とは言い切れない、術後を含めた後天性眼瞼下垂の原因究明が必要と考え、そうした患者さんを積極的に受け入れて手術を行っていました。
(当時は、教科書的には眼瞼下垂は先天性と老人性、外傷性ぐらいしか分類されていませんでした。)

私の学会発表デビューも、眼瞼下垂症患者の眼瞼挙筋を先天性と後天性に分けて組織学的検討を行う、というテーマでした。
先天性の眼瞼下垂症患者の眼瞼挙筋は筋肉組織がほとんどなく脂肪に置き換わっているという発表をしたのですが、そんなことも当時はまだあまりよく分かっていませんでした。

また、寺島先生が、その年の形成外科学会総会で「眼瞼下垂手術」の教育ビデオを発表される関係で、県立尼崎病院ではほとんどすべての眼瞼下垂手術のビデオ録画を行っていました。

私は初めのうち、上の2人の先生が執刀する手術を克明に録画するビデオ係でした。これは非常にラッキーなことでした。

研修医は通常、上の先生についていわゆる「介助」を行うわけですが、介助係の役割は執刀医がやりやすいように周囲に気を配って血を拭いたり皮膚を引っ張ったりすることですから、先輩の手術する手元ををはじめから終わりまでずっと見やすい位置で見ているなんてことは許されません。
何をしているのかよく見ようとして首を伸ばせば、術者の手元を照らすライトをさえぎったりして邪魔になるので怒られてしまうのが普通です。

ところが、私の役目は手術のやり方を説明するためのビデオを撮影する係ですから、直接手を出すことはできませんが、手術のやり方が最もよく見える位置に陣取って、逆に「先生、手が邪魔で見えません」などといって術者の手をどけてもらうことだってできるのです。
40例ほどだったでしょうか、繰り返し繰り返し、先天性・後天性を含めてさまざまな患者さんの手術をはじめから終わりまでじっくりと見ることができました。

また後日、これらを編集して「手術のキモ」の部分を繋ぎ合わせる際にも、自分で撮影したビデオを繰り返し飽きるほどみることになりました。これは未熟な研修医であった私にとって本当に貴重な財産となりました。

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眼瞼下垂症手術と私(1)

眼瞼下垂の手術を初めて見たのは、京大研修医1年目の夏ごろだったと思います。
先天性眼瞼下垂の患者さんで、術者は現在神戸でさわだクリニックを開業されている、当時形成外科講師の澤田先生、術式はオーソドックスな挙筋短縮前転法だったと記憶しています。
(もう20年も前のことになりますが、実は患者さんのお名前も覚えていたりします。)
当時京大では眼瞼下垂の手術はあまり数多く行われておらず、結局大学病院では2~3例の手術に入らせてもらっただけで、自分で手を出すチャンスはまったくありませんでしたし、今のように瞼の手術を数多く行って、瞼専門外来を開くようになるとは想像もしていませんでした。いわば、形成外科医の教養の一つとして「一応知っている」というだけのことでした。(もちろん、研修医レベルとしてはそれでいいわけですが。)

眼瞼下垂の手術を実際にやらせてもらい、また文献などもたくさん読んで、広い形成外科の分野の中でも特に眼瞼下垂に親しみを持つようになったのは、研修医2年目、兵庫県立尼崎病院に勤務していたころでした。

当時の形成外科部長は、現在長野県の新生病院にいらっしゃる寺島先生(一時期、2ちゃんねるで瞼の美容手術の修正がお上手と評判になり、患者さんが集中して大変お困りになったようですが、本当は各種の形成外科手術に大変な技量をお持ちの先生です)、もう一人、野瀬京子先生(現在京都市の、ご実家でもある中嶋外科整形外科にお勤め)が医員でおられて、その下の3番目として、いろいろな手術を実際にやらせていただきました。

眼瞼下垂については、その1年で年間60名ほどの手術を経験しました。これは今ほど眼瞼下垂という病名がポピュラーになっていなかった当時としてはかなり多いほうではなかったかと思います。

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