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2009年5月

私がマカーになったわけ(4): System 7

 私がMacに期待したもう一つの理由は、多言語性であった。

 Macはアメリカ生まれのコンピュータでありながら、GUI (Graphic User Interface) と WYSIWIG (What You See Is What You Get:モニタ画面に表示されたのと同じように印刷できる) を標榜していたこともあってハードウェアに頼らずソフトウェアで様々な文字を画面に表示し、印刷することが可能であった。もちろん文字はすべてソフトウェアがビットマップで処理して画面表示するので、動作が重く、軽快なスクロールなどは無理だったが、そのかわりフォントファイルさえ用意すれば、アルファベット以外のアジア系言語でも問題なく表示できた。

 学生時代から私は様々な言語に興味があり、とりわけその頃は韓国語(ハングル)を独学していたから、韓国語を表示でき、可能ならば1つの文書の中で日本語と混在できるようなコンピュータが欲しかった。当時Macはもちろん韓国でも、それどころかチベットやインドでも使用され、それも英語ではなくその国の言語に準拠したシステムで動いていたから、それは可能であるように思われた。

 私が買ったⅡciには漢字トーク6.0.7というバージョンの日本語純正システムがインストールされており、FEP (Front End Processor)の2.1変換は使いにくかったものの、ATOK等も使えるので日本語使用には問題がなかった。(ただ、ソフトによっては2バイト文字の存在を想定していないため1バイトの英語システムでしか動作しないものがあり、そうしたソフトを使う際には再起動して英語システムに切り替える必要があった)

 また、裏技として、日本語システムの上に英語システムを上書きして、メニュー表示を英語にしてしまう(ファイル、編集 よりFile, Edit の方が格好良い!)とか、一部のシステムファイルを英語版のものに取り替えてハイブリッド化するといった方法が知られており、そうした面でもかなり柔軟性がありそうに思えた。

 一方、そのころようやく姿を現しつつあったWindowsの初期バージョンやMS-DOSでは、ドイツ語のウムラウト(アルファベットの上に点々)を表示することも非常に困難で、プリンタで印刷した紙に手書きで点々をうたねばならないような有様であった。

 それならば、このMacに韓国語システム(ハングルトーク)をインストールして、ハイブリッド化してしまえばよい。そう考えたのが、例に拠って苦労の始まりであった。

 調べてみると、同じことを考える人はいるもので、当時販売されていた唯一の日本製多言語ワープロであったAll Scriptは、使いたい言語のシステムをハイブリッド化することによって言語の混在を可能にするソフトらしかった。そこで問い合わせてみると、確かに「韓国語システムを用意していただければ」韓国語との混在は可能だという。

 ところが!ハングルシステムとハングルフォントを入手することがこんなに難しいとは。韓国人や在日の友人がいたわけでもなく、単に興味から独学で韓国語を勉強していただけだったので、入手先がまったくわからない。いろいろと聞きまわったあげく、シンガポールにあるアップルのアジア支社につたない英語で問い合わせてみると、確かに各国別のシステムはあるものの、それぞれのシステムはそれぞれの国内でのみ販売が許可されており、韓国語システムは韓国に行かなければ買えないという。それも当時韓国ではシステムのみの単独販売は行っておらず、もしハングルトークが欲しいなら、最低でも日本円で40万円ほどするマック本体(当時発売されていたMac Classic)と一緒に買う必要があるというのだ!

 これではたまらない。私は、やがて発売される「マルチリンガル」システムといわれるシステム7に期待することにした。

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私がマカーになったわけ(3): Macintosh Ⅱci

 Ⅱciを買ったのは、私が医者になったということと深くかかわっている。

 当時私は冨士森形成外科に勤務していて、症例写真をもとに学会発表スライドを作ったり、発表用ポスターを作ったりする機会が度々あった。その頃の学会スライドといえば、ワープロで印刷した(あるいは場合によっては手書きの)白黒の文書を「スライド屋さん」に持っていって青焼きしてもらう「ブルースライド」と、マクロ付1眼レフ(もちろんアナログの銀塩)カメラで撮った35ミリのカラーリバーサルスライドを順番に束ねたものが主流だった。

 つまりほとんどの発表演題が、ブルーバックに白抜き文字の題字で始まり、同様の説明スライドが数枚あって、カラーの症例スライドが何枚か(「これが術前です」「こちらが術後1ヶ月です」なんていう解説付きで)続き、最後にまた青地に白のまとめ、という形式になっているわけだ。

 ところが国際学会などでは(あるいは海外からの招待講演にくる著明なプロフェッサーの場合は)きれいなバックグラウンドカラーに華麗な色つき文字、説明の文字や矢印が入った写真など、何らかの画像加工をしたスライドでかっこいい発表をするドクターが増えつつあった。

 大学などに所属してそれなりの予算を付けてもらえるのなら、そうした加工をプロのスライド屋さんに依頼することもできるのだが、個人でそうしたことをやろうと思うと、当時は非常に大変だった。そうしたことが個人レベルでかっこよくできる手段として、わたしが目を付けたのがPhotoshopという画像編集ソフトであり、そのソフトが使えるコンピュータがMacだったわけだ。

 Macがグラフィックに強いのは医療界では有名で、医者仲間ではMacが普及しつつあったが、まだ個人で買うには高価で、大学や病院の医局などで購入するケースが多かった。なにしろ、スライドを作ろうと思えば本体だけでは話にならず、20万円以上するPhotoshopなどの画像ソフトが必須であるのに加えて35ミリスライドやレントゲンフィルムなどを読み込める透過型スキャナ、35ミリのカラーリバーサルフィルムに画像を直接記録するフィルムレコーダーなど、一つ一つの機器が中古車1台買えてしまう値段なのである。(ソフトについてはINHが研究者向けに無償で配布しているImageソフトが入手可能だったが)

 私は130万円以上のローンを組んで、何とかⅡciの本体と13インチモニタ、35ミリスライド専用のフィルムスキャナ(当時としてはかなりハイレベルの1850dpi)といくつかの画像ソフト、録音用機器とサウンド編集ソフトなどを手に入れたが、残念なことに作った画像を記録するフィルムレコーダーまでは手が出なかった。

 画像をフィルムに記録するのに最適なのは、当然4000dpiの高解像度で記録できるフィルムレコーダーなのだが、その廉価版として、写楽(たしかこんな名前)という機械がそのころ発売されたように思う。何のことはない、機械に内蔵された小型の高解像度モニタに画像を映し出し、それをこれも内蔵されたアナログカメラで写真に撮るといういかにもな構造である。それでも結構高くて30万円近かったように記憶している。

 それならばというので、真っ暗にした室内で13インチカラーモニタに映し出した画像を、向かい合わせに置いた1眼レフカメラで撮影してみたりしたのも懐かしい思い出だ。(さすがにこの方法では、大きな会場に投影するレベルの解像度は得られなかった)

 結局のところ、フォトショップを使ってかっこいいスライド、という試みは、画像を作るところまではいいのだが、出力の段階でプロのお世話にならざるを得ないという少々不本意な結果となった。当時のスライド出力サービスは、Mac専門の出力センターでスライド1枚2000円ぐらいかかり、駆け出しの身には少々つらい出費であった。

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私はなぜマカーになったのか: Macintoshに出会うまで(2)

 東芝のDynaBookSS001は、衝撃的なコンピュータだった。

 当時のパソコンは、デスクトップかラップトップ。デスクトップは本体の上に鎮座するモニタがブラウン管だから、当然持ち歩ける大きさではない。持ち歩ける大きさとしてのラップトップは、しかし、重さも5キロ以上は優にあって、本当に膝に乗せたらラップクラッシャーといわれるようなものであったからだ。
 ラップトップは価格も先に書いたように、安いものでも数十万円。東芝の真っ赤なプラズマのモニタ画面は魅力的ではあったが、主に企業向けであって個人で気軽に買えるようなものではなかった。

 そこに、重さ3キロのノートタイプのパソコンが198,000円で登場したのだから、飛びついた人は多かったと思う。もちろんフロッピーベースで、ハードディスクは内蔵されていない。しかし、メモリが1.5MBと、当時のMS-DOSのメモリ管理の制限640KBより多く、余った部分をスワップメモリやRAMディスクとして使うことができた。

 当然買ったわけですよ、ええ。

 当時パソコンを買った人の多くが、パソコンを「高機能なワープロ」として捉えていたのだろうと思う。モノクロ画面で画像処理機能は貧弱で、スキャナもとんでもなく高く(私が最初に買ったスキャナは40万円以上した)、表計算ソフトは未発達で、インターネットどころか通信機能もなくて、データベースといっても住所録ぐらいしか思いつかないなら、パソコンでできることは年賀状印刷と簡単な文書作成ぐらいしかない。実際、雑誌のパソコン特集もほとんど「年賀状と住所録」の作り方ばかりだった。

 だから、私が「ワープロソフトは持っていない」というと、周囲の人々はパソコンを何に使うのかと訝った。だが私にしてみれば、すでにワープロは専用機を持っているのである。ワープロではできないことをするためにパソコンを買ったのだから、パソコンにワープロソフトは不要だというのが持論だった。何しろパソコンに繋げるプリンタすら持っていないのだ。(ほらほら、こういうやつなんです、私は)

 では私はパソコンで何をしていたか。すでにソフトとハードの本を山のように読んで、当時一丁前のパソコンお宅と化していた私は、パソコンをいじること自体が楽しかった。文章はエディタで書けばいいし、印刷するならワープロ専用機にデータを移せばいい。それよりも、システムをカスタマイズして本来の仕様にないことをさせたり、巨大なバッチファイルを組んでデータ整理を自動化したり、といったことにはまっていたのであった。

 え?Macはどこに出てくるのかって? いや、この段階では、私にはマックは高嶺の花でして、知ってはいたが買えない存在でした。Macintoshは、グラフィックや音楽や出版などのプロフェッショナルが使うものだと思っていました。最初のMacが、Rest of USのための知的自転車として企画されたなんてことも知りませんでした。様々なすばらしいゲームがMac用に作られていて、ゲームをやるためにMacを買う人がいたり、なんてことも知らなかったのです。ごめんなさい。

 私がMacを買えるようになるのは、医者になって3年目、ようやく安定した給料がもらえるようになってからだった。本体にモノクロモニタが内蔵され、中を開けようとすれば特殊工具が必要な、ブラックボックスのような存在だったMacが、セパレートタイプになり、カラーが標準的に扱えるようになったⅡシリーズが発売され、そしてついに本体価格が100万円を切った。

 私は、Ⅱciを本体68万円、その他Photoshopやらフィルムスキャナやらカラープリンタやらもろもろ合わせて130万円ほどで買い(もちろんローン)、ようやくマカーに成れたのであった。

 

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私はなぜマカーになったのか: Macintoshに出会うまで(1)

 今クリニックで使っている電子カルテは、Windowsでなければ動かない。しかし、私は筋金入り(笑)のマカー(Mac使い)で、開業するまではWindowsを触ったこともなかった。

 もちろん私がコンピュータというものに初めて触れた30数年前には、Macというコンピュータはまだこの世界に登場しておらず、それどころかパソコン(パーソナルコンピュータ)という言葉すらなかった。(このあたりのことは、いずれ稿を改めて書くつもりだ。)

 学生が個人で買えるコンピュータといえば、プログラミングのできる関数電卓(いわゆるポケコン)か、自作のキットぐらいだった。個人で所有できるコンピュータは、ミニコンよりも更に小さいマイクロコンピュータという意味と、自分のという意味を兼ねてマイコンと呼ばれていた。
 そのころ京大にはマイコン部というのがあって(私は所属していなかったが)マイコン部の学生の中にはApple Ⅱを持っているものもいた。しかし当時の私には、アップルはまだ別世界の存在だった。

 日本においてパソコンの普及にもっとも大きな役割を果たしたのはNECの9801シリーズだと思う。私が最初に、真剣に買おうと思ったのもやはりPC98だった。
 しかし、私はいわずと知れたへそ曲がり。ベストセラーとか売れ筋と聞いただけで敬遠してしまうぐらい「はやり物」が嫌いである。(そのおかげでいらぬ苦労を背負い込んだ経験は数知れず)そのくせ新しい物好きだから、買おうと思ったのは、当時最新のPC98XAという機種だった。

 98XAは売れ筋の9801シリーズとは違い、ハイレゾモードといって画像解像度が段違いに細かく画面が非常にきれいだった。しかしその代償として、PC98なのに9801シリーズのソフトが使えない(専用ソフトが必要)という欠点を持っていた。
 当時、コンピュータのソフトは一つ一つがとんでもなく高額で、本体を買ったもののソフトが買えず「コンピュータ、ソフトなければただの箱」などという川柳を地で行くような人もいた。付属ソフトどころかOSも別売だったりして、ワープロだけにしか使えないPCとワープロ専用機とどちらが便利か、などという記事が雑誌に載るような時代だった。

 しかし、ハードは作れないがソフトは買えなければ作ればいいと考えていた私は、パソコン本体を買う前にまず解説書の類をどっさり買い込んで、コンピュータのハードウェア・ソフトウェアの勉強をはじめた。(じつは本体を買うには絶望的にお金が足りなかったのだ。当時のコンピュータは、まともに買えばソフト込みで小型車が一台買えてしまう位だったのだから。)

 当時Windowsはまだないから、98を動かすOSはMS-DOSだった。MS-DOS関係の本は隅から隅まで読んだ。(MSがマイクロソフトの意味だということはそのときに知ったが、そのころのマイクロソフトはまだ数あるソフトメーカーの一つに過ぎず、今のような隆盛は想像すらできなかった。)また、ハードウェアである98XAの技術解説書も手に入れて、UNIXもちょっとかじって、と一体本業は何?といいたくなるほど熱中した。

 でも、結局98XAを私は買わなかった。私が最初に買うことになるコンピュータは、それから数年後に登場するDynaBook。それまでは、不本意ながらコンピュータより格段に安いワープロ専用機を使っていた。ワープロについては、別に書くことにする。

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